東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・5

 コントロールルームの時計は15時50分を示し、スタッフさんが慌ただしく動き回っている。
 そんな中、美優たちはついさっき支倉音響監督が発した言葉を頭の中でリフレインさせ、その言葉の意味や重みを噛み締め、感じていた。
『これを声優デビューって言ってもいいよ』
 さらっと言ってくれた。
 不安になって美優がチラと横に視線をやる。
 さよりさんは軽く口を開いて今にも何か言いたげにしているし、最上さんは支倉音響監督を見下ろし呆けている。一見ポーカーフェイスに見えた十時さんは口をがっちりと真一文字に絞めていた。いきなり決まったデビューに、さすがの優等生たちも困惑の色を隠せずにいたのだ。
 その延長線上。スタジオ内部がよく見えた。
 壁際にぐるりと巡らされた椅子はほぼほぼ埋まっていて、遠目からは誰がどこに座っているかはわからない。スタジオ内は明るいし有名声優もアイドル声優もいるはずなのに、誰の顔も認識できないでいた。
 それくらい、美優を取り巻く事態は目まぐるしい。
 まさか自分が、あのスタジオの中に入って名だたる声優陣と肩を並べることになろうとは。
 スタジオにいる声優が誰なのかすぐには判らないけど、森永響の姿だけはすぐ捉えることができた。彼がコントロールルームから見て真正面の位置に座っているからだろう。隣に座る小倉さんと台本を見ながら何か話している。
 自分が連れてきた養成所生が今日声優デビューを果たすと知ったら、あの人はどんな顔をするのだろう。
 そんな美優たちを尻目に支倉音響監督はスタジオの方に向き直ると、手元にあるスイッチボタンを押した。トーンバックボタンという名称であることは、声優指南書で覚えた知識だ。
「皆さんおはようございます。支倉です。本日もよろしくお願いいたします」
 マイクに向かって挨拶をすれば、スタジオにいる声優陣が頭を下げる。
 支倉音響監督は続ける。
「……えー連絡事項が何点かあります。まず一点め。本日は原作者の斉木先生と出版社の方がお見えです。時間いっぱい見学をされますので、よろしくお願いします」
 紹介された斉木先生と編集さんは椅子から立ち上がるとお辞儀をした。声優陣も立ち上がると頭を下げる。
 斉木先生は頭をあげると座ってポケットからメモ帳を取り出して何かを書き始めた。後でレポート漫画を描くためのメモであろうか。
 斉木先生の着席を見届けて、声優陣も椅子に座り直す。
「二点め。東京ボイスアクターズの養成所生が見学に来ています」
 紹介されて、美優たちは戸惑いの中にいても深々とお辞儀をした。
「で三点め。突然で申し訳ないのですが、モブの少年AとB、少女と子どもを、見学に来てくださった東ボイの学生さんたちにお願いすることにいたしました」
 支倉音響監督の言葉に声優陣は少々の動揺を見せる。真正面に見える小倉さんはあからさまに驚きを顔に出し、森永響も目に見えて体をひくっと震わせた。
 そして美優は目が合った。
 森永響と、目が合った。
 凝視され、思わず森永響から目を逸らした美優の脳裏にはこんな言葉が浮かんだ。
 目は口程に物を言う――。
 思わず背筋が凍り、美優は思わず目を逸らしてしまった。
 自分が連れてきた養成所生のデビューという音響監督の英断に、否を称えるかのような鋭い視線――。
 支倉音響監督は続ける。
「それに伴い、役名に変更があります。キャストの正式表記、所属につきましてもロビーに掲載してますので、必要な場合はこの後の休憩の際に記載してください。役名は今口頭でいうので各自メモをお願いいたします」
 支倉音響監督の指示に従い、声優は各々ペンを用意して台本に記入数準備に入った。森永もポケットからペンを取り出して台本に向かう。
「少年Aを『オン』、Bを『バル』、少女を『ヨリ』、子どもを『ユウ』、以上です。まだアフレコの練習をしたことがないそうなので、余裕のある方は教えてあげてください。では、10分後にテストを行いますのでよろしくお願いします。森永くんは学生さんを迎えに来てください」
 告げて支倉音響監督は手元のボタンを押した。スタジオへの音声を切ったのだ。
 森永響をはじめ、スタジオの声優陣が各々動き出したのを確認して、支倉音響監督はこちらへと向いた。
「マイクワークやなんかは先輩声優の見ながらでいいから、やってみてよ。テスト・ラステスは失敗してもいいからさ。ただし、本番はしっかり演じてね。ミスると、後で取り直しだから」
 途中から台本に目を落としながら何の感情の抑揚のなくそう言った支倉音響監督は、ふと顔を上げた。タイミングよくドアがノックされて、失礼しますと入ってきた森永響の表情は、硬い。
「お迎えご苦労さん」
 支倉はその表情を一瞥すると、再び美優たちを見上げた。
「あとは先輩たちに任せるから、気負わずのびのびとやってよ。では、よろしくお願いします」
 美優たちは返事を返して支倉に頭を下げ、森永に続いてコントロールルームを後にした。
 まさか。
 こんなことになるなんて。
 美優もだが、さよりさんも十時さんも、最上さんでさえ言葉が出てこない。
 それほど突然なことであり、大きなチャンスである。
 お菓子が置いてある会議テーブルの脇には、先ほどまでそこになかったホワイトボードが設置されていて、スタッフさんが書かれたのだろうか丁寧な手書きでこう書かれている。

 キャスト名変更、及びキャスト
 旧役名:新役名:キャスト:所属
 少年A:オン:最上葉遠:東京ボイスアクターズスクール
 少年B:バル:十時昴:東京ボイスアクターズスクール
 少女:ヨリ:北原さより:東京ボイスアクターズスクール
 子ども:ユウ:藍沢美優:東京ボイスアクターズスクール

 それを、名立たる声優が台本に写し取っている。
 もちろん、役名とキャスト名はアニメのエンディングにクレジットされるのだろう。
「……あの、森永さん」
 少しだけ自信無さげな声で、さよりさんが森永響の背中に声をかけた。さすがの彼女も突然のことに動揺しているように見える。
 呼ばれて振り返った森永響にもいつもの余裕が感じられない。普段なら、余裕の笑みを浮かべているはずだ。
「あの、……こういうことってあるんですか? 見学で急に配役されるって……」
 さよりさんに尋ねられ、森永響は自分の時のことを思い出していたのだろうか、一瞬間を置いて頭を横に振った。
「……極まれにスタジオに入れる見学もあるとは聞いてますが、その場合は大体は『ガヤ』です」
 ガヤとは、いわゆる環境音。不特定多数がガヤガヤとしゃべる音声だ。
 森永響は続ける。
「……モブでも一言二言……役名も付きません」
「え、じゃぁ、俺たちって……」
 十時さんの声に、森永響は答えた。
「役名まで変更されてセリフもモブとは言い難い多さです……これは極めてイレギュラーなことだと思いますよ……」
 嚇かしのように聞こえて、美優は思わず息を呑んで視線を泳がせる。
 上野駅に着いた時には、こうなることなんて予想もしていなかった。
 アフレコ収録見学なんて自分には相応しくない。そう思ってそれでも来たのに――。
 その時だった。
「おいこらビッキー、スクール生をビビらすな!」
 明るい声に顔を上げると、森永響のほっぺたを後ろからムニッとつまむ小倉さんの姿があった。小倉さんは悪の手下の一人を演じている。故に森永響と席を隣同士にしていた。
「……ちょっと、やめてくださいよ!」
 小倉さんの手を払い除けながら怪訝な顔をした森永響の隣。
「ごめんね。怖がらなくていいのよ」
 そう言いながら美優たちに笑顔を向けたのは、東京ボイスアクターズ所属の田島裕子さん。ハキハキとした明るい声質で主役クラスのヒロインを任されていることも多いが、この作品ではニューハーフの男性を演じている。
 田島さんの隣にいるのは、同じく東京ボイスアクターズ所属の田神篤志さん。重厚感のある声が特徴で、今作も主人公パーティの大黒柱的存在を担っている。
「スクールで勉強してることの応用だと思って、堂々としてれば大丈夫だから」
 いい声で囁かれると緊張もほぐれる――のは、こんな非常時ではない。
 小倉さん、田島さん、そして田神さんの、東京ボイスアクターズ所属の売れっ子人気声優揃い踏みだというのに、美優の心は緊張したまま、別の意味で心臓が高鳴って仕方がない。
 さよりさん、最上さん、十時さんも緊張のあまり愛想笑いを浮かべている。
 森永響に至っては、もうこちらを向いていない。
「高崎マネージャーさえいたらちょっと交渉して貰えたんだろうだけど……」
 田神さんの言葉でハッと息を呑む。
 そういえば、高崎マネージャーは?
 同行するとか言っていたような記憶があるが。
 美優の思考を遮ったのは、森永響。
「仕方ないですよ。坂下の付き添いなんですから」
 森永響は相変わらず視線をはずし続けていた。
 この重苦しい空気の中。
「で」
 と声を発したのは、田島さんだった。
「田神さんと小倉くん、そして私でレッスン生を一人ずつ担当しようってなったんだけど、森永くん、どう? そうしたらあなたの負担も軽くならない?」
 優しく尋ねられて森永響は、初めて表情のある顔をして見せる。そしてバツが悪そうに田島さんに向き直った。
「……有難いお申出です。是非……」
「決まりね。もちろんあなたにも一人受け持ってもらうけど」
「それは当たり前です。全員俺が選んでつれてきたんですから」
 森永響の言葉を聞き、美優の背が少しだけ伸びた。
 こんなあたしも、自分で選んで連れてきたって、そう言ってもらえるんだ……。
 胸が詰まる。
 そんな美優の気持ちなど知る由もない小倉さんは、はぁぁとため息を吐いて、レッスン生に目線を向ける。
「しかし支倉さんも突然だよなぁ。前もって『こういうことだからー』言ってくれてたら、お前らだってビビらなくて良かったし、俺らだって準備したのにさ」
 ねぇ。と小倉さんが眦を下げて美優たちに笑いかけた。その隣では田神さんが、いや。と言いながら首を横に振っていた。
「支倉音響監督のことだから、きっと俺らも所属声優として、後輩をどう導くのかって技量を試されてるんだよ……」
 田神さんの会心の一言に、はっとした田島さんと小倉さんの表情が一気に曇った。
 売れっ子と言っても、田神さんはデビュー10年目、田島さんと小倉さんは9年目。それぞれまだまだ若手の域にいる。これが、事務所所属単位での結束を試されているのなら――。
「……ならなおさら!」
 所属声優とレッスン生の間に流れた思い空気を、小倉さんの明るい声が取っ払う。
「東京ボイスアクターズの威信にかけて、この難局をみんなで乗り切らないとだ!」
 まるで熱血アニメの主人公の如く。
 それに呼応するように、田島さんと田神さんが顔をあげた。
「……そうね。私たちが教えなきゃね」
「現場は楽しいってことを、な」
 そう笑い合う三人。キラキラ輝いてなんと頼もしい存在だろう。これが現役声優の余裕なのだろうか。
 憧れの眼差しを向けている美優の隣、最上さんが一歩進み出た。いつもの余裕のある雰囲気が嘘のような、真剣な表情で、小倉さんと田島さん、田神さんと森永響を見た。
「あの……僕たち、ご迷惑をおかけしないように頑張りますので……よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!」
 頭を下げた最上さんに倣い、さよりさんも頭を下げると十時さんも深々とお辞儀をしたので、美優もばっと頭を下げた。
「お、おねがいしますっ」
「……すまないが頭を上げてくれ……! そこまでされるとこっちもプレッシャーがだな……」
 口籠り気味の田神さんの声に頭を上げた4人が見たのは、なんとも頼もしい表情の先輩だった。
「大丈夫よ。迷惑だなんて思ってないし。堂々と……とはいかないだろうけど、普段通りでいいんだからね」
 と微笑む田島さんは、頼れるお姉さんという雰囲気。隣にいる小倉さんはなんだかうれしげにニマニマと破顔寸前で。
「プレッシャーってか、むしろ、俺わくわくしてきたぞ!! って感じだし!」
 と、これから起こるであろう困難を楽しむつもり満々であった。
 そんな3人の向こう。p  おずおずとした様子で控え目そうな女性が覗き込んでいた。
「あの、わたしも何かお手伝いすること、ありますか……?」
 確か彼女は、この春に事務所に所属したばかりの新人声優・御門あゆみさん。恐らくこの現場がデビュー作なのだろう。ぎゅっと台本を握ったまま、やっとの思いで会話に入ってきたという雰囲気だ。
 だが、そんな彼女の頑張りを無碍にする人間がいるのだ。
 腕組みをしている森永響だ。
「他人に構ってる余裕があるんですね」
 冷たいその一言に、御門さんはうっと息を呑んで落ち込んでしまう。
「うおぉぉいビッキー、イライラすんなぁー」
 小倉さんが森永響を肘で小突く隣で、田島さんが「だけど」と御門さんに話し始める。
「御門さんには無理してほしくないのは本音だよ……」
 先輩の言葉に御門さんは申し訳なさそうに俯いてしまったので、田島さんは少し慌てて。
「あ、じゃぁ、サポートしてくれる? 例えば、私たちがいない時にそばについてあげるとか」
 そう提案すると、御門さんはぱっと笑顔を見せた。
「っ……はい! お任せください!」
 と、先輩たちに宣言し、ぱっと美優たちを見た。
「頼りないかもですが、よろしくお願いします!」
 溌溂としたあいさつに、美優たちも挨拶を返した。
 そんな彼らに「僕も何か手伝おうか?」と、突然話しかけた人物がいた。
 この心地のいい声。東京ボイスアクターズのエース的声優、星野優介さんだ。
 甘い声や尖った声を巧みに使いこなして大ブレイクし、数年前のイケメンヒーローといえば全員この人といっても過言でもない、超が付くほどの人気声優だ。今作では初の悪役ボスという役柄。
 そんな大物の登場に美優たちも息を呑んだが、所属声優たちもはっと息を吸ったかと思った次の瞬間、頭をブンブンと横に振る。
「いやいやいや、星野さんの手を煩わせるほどのことではありません! 我々で必ずこのミッションを成功させてみせますので!」
 小倉さんが必死の形相で言うと、田島さんと田神さん、御門さんと森永響でさえも、小倉さんの言葉を肯定するようにコクコクコクコクと高速で頷いている。
 後輩たちに全力で拒否されて心なしかしょんぼりしている星野さん。
「え、僕も手伝いたいんだけど……」
 顔が駄々っ子そのものである。
 若手三人衆は渋い顔でお互い目を合わせたが、意を決したように田神さんが咳払いをした。
「……じゃぁ、星野さんは、俺たちを見守っていただけませんでしょうか? わが事務所の総監督ってことで!」
 総監督。
 その甘美な響きに星野さんは満足げだ。目をキラッキラさせてうんうんと頷いている。
「わかった。総監督がんばる。じゃぁ、何やればいい?」
「えー、じゃぁ、スタジオの椅子を温めていてください。もしくは、発声練習でも。そして来たるその時には、どんと出てきてください!」
 小倉さんが拳を作りながら語気を強めれば、星野さんはさらに瞳を輝かせる。
「ヒーローは遅れてやってくるんだね! わかった、じゃぁ先にスタジオに入ってるから!!」
 と、手を振りながらスタジオの扉の奥へと入っていった。
 新人声優二人はお辞儀をし、若手声優三人は手を振り返し。スタジオの扉が閉じるなり若手声優は、はぁ、と息を吐いた。
「支倉さんが俺らの技量も試してるってのに、エース声優にさせられるかよ……」
「うん。私たちの存在意義が死ぬ……」
 小倉さんと田島さんが疲弊したように呟くと、田神さんもうんうんと頷いている。
 それだけ有能な声優なのだろう。星野さんは。
「んじゃ大御所いなくなったし、担当決めようか」
 気を取り直した小倉さんは、んーと唸りながら口を尖らせてホワイトボードをじっと眺め始める。
「……担当は、絡みがあるキャラ同士が一番スムーズか」
 呟いて台本を忙しなく捲り始めた小倉さん。
「そうだね」
「うん」
 小倉さんに続いて、相槌を打った田神さんと田島さんも台本を開いた。
 新人もレッスン生も若手も、皆が皆、台本のページを行ったり来たりとさせている最中。
「……『ジン』」
 小倉さんが声を発した。
「なんですか?」
 返事をしたのは森永響。
 『ジン』とは、小倉さんの役である『クロノ』率いる『無の四天王』のうちの一人。
 彼は役名で呼ばれたのだ。
「お前、『ユウ』を人質にしてるな」
「……してますけど、何か?」
 小倉さんに、まるで悪者に向けるような鋭い視線を向けられた森永響はたじろぎつつも返事を返した。
 が、小倉さんは鋭い視線のまま、台本に目をおとした。
「……なんなんですか、変な目で見て……」
 森永響のぼやきも無視で、小倉さんは台本を読み続けていたが。ふと顔を上げるなり田島さんを見た。
「『カスミ』」
 とは、主人公『カイミ』の仲間の、有翼人。オネェ口調の綺麗な魔法使いのお兄さん。
「なぁに。よんだぁー。なんてね」
 オネェの役柄になりきって、田島さんが返事をした。
「お前、『ヨリ』と絡んでるな」
 小倉さんの声色も、どことなく役柄に似てきた。冷徹で、刺すような声。
 これには田島さんのノリノリで。
「そうなの、お給仕されるのよぉ。ねっ」
 と、さよりさんに笑顔を向ける。
 美優と同じく、所属声優達の会話を傍観者として見守っていたさよりさんは、田島さんに話をふられるとスッと表情を引き締める。
「はい。頑張ります!」
「いい表情ね! 期待してるわよ」
 田島さんがさよりさんの方にポンと手を置く中。
「『ギンガ』」
「はい」
 小倉さんに呼ばれて、田神さんが返す。
 『ギンガ』は、田島さん演じる『カスミ』の兄。精悍で勇敢な勇者だ。
「『俺たち』が襲撃したとき、『バル』に声かけてるな」
「うん、逃げろって言ってるね」
 田神さんは台本に目を落としながら、先の出ていない三色ボールペンで撫でる。
「で、俺は『オン』を殺してる……と」
 三色ボールペンをくるくると回しながら考えていた小倉さんが、はっと顔を上げた。
「んじゃ、絡みやなんかを考慮して、最上葉遠担当、俺! 十時昴担当、たがみん! 北原さより担当、たじゆう! 藍沢美優担当、ビッキー。これで――」
「はぁ?」
 小倉さんの言葉に完全に被せる形で声が上がる。
 あからさまに怪訝な表情を浮かべる森永響だ。
「何、ビッキー。異論?」
 小首を傾げた小倉さんの視線がやや鋭くなると、森永響は微かに引いて口を噤んだ。
「……いや、なんでもないです……」
 微かにでも口を尖らせる表情は、美優の心にヒビを入れる。
 ……あぁ、あたしの担当は嫌ってことか。
 心が冷めていくのを感じながら美優が息を吐くと、御門さんが「あのっ」と声を上げた。
「担当も決まったので、わたし、座席の調整に行ってきます」
 他事務所の声優さんに話をして、席を移動してもらったり席の間に椅子を入れる作業をするという。
「おう、よろしくなあゆみん」
 気の利く後輩の提案に、小倉さんは表情を戻すなり笑顔で彼女を送り出した。
 担当レッスン生を決めて事務所の威信をかけるという先輩声優たちと、あれよあれよという間に指導してくれる先輩が決まったレッスン生たち。
 双方、士気も高まっていた。
「先輩たちがあれだけ俺らをサポートしようと奮闘してくれてるんだ。俺らも期待に応えないと……」
「そうだね、ビビってる場合じゃないね」
 十時さんが気合を入れると最上さんもニィっと口角を上げた。
「東京ボイスアクターズの威信にかけて――ってなかなかかっこよかったわよね。ならわたしたちも、スクールの威信にかけないとね」
 さよりさんまでこんなことを言って目を細める。
 だけど美優は何も言えなくて。何を言うわけでもなく、うんうんと頷いていた。
 無理。
 そんな、期待に応えるなんて。
 だって、あたしに期待してる人なんていないじゃない。
 レッスン生4人で先輩に頭を下げる最中でも、森永響はどことなく憮然とした態度で。
 美優は泣きそうになる自分を抑え込んだ。