東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・4

 上野駅近郊にそのビルはあった。
 コンクリート造りの灰色のビルで、鉄製の黒い手摺が都会的だ。見上げてみた感じ、そんなに高い建物ではなかった。
 扉は地上にもあったけど、森永響は地下に続く螺旋階段を下りて行く。美優たちも彼の後に続いて螺旋階段を下りていくと、目の前にはガラスの扉が美優たちを待ち構えていた。
 ガラス扉にはスタイリッシュなフォントで、こう記されている。
 studio CUE
 ここが夢に見た場所――アニメーションのアフレコスタジオ。
 緊張している美優たちを背に、森永響はまるで我が家の扉を開けるように入り口のガラス扉を開けた。
 森永響の肩越しに見えたのは、カーペット敷きの明るいロビー。広さはそうでもないが、左側に続いているように見える。
「ここがスタジオです。分からないことや知りたいことがあったら遠慮なく聞いてくださいね」
 森永響はそう言うと靴を脱いで下駄箱に入れた。彼に倣って四人も下駄箱に靴を入れる。下の段に入れたのは、森永響が若手だからか。上段や中段にはもうすでに靴が何足か入っていた。
「……私たちが一番じゃないんですね」
 靴を下駄箱に入れながらさよりがつぶやくと、森永響がちらと振り返った。
「声優では俺たちが一番乗りです」
「じゃぁこの靴は?」
「その靴はスタッフ方のものです。音響担当のスタッフは声優よりもっと早くにきて、作業してるんです。機材のセッティングや録音機械の動作確認、あと――」
 説明しながら森永響が左手に曲がるので、四人もついていく。目の前に広がるのは、それほど広くはないロビー。右側には会議テーブルが設置されていて、机上にはたくさんのお菓子が並んでいた。
「――収録の合間に声優がつまんで食べられるような、こういうお菓子の準備も制作スタッフの仕事です」
「お菓子の設置も仕事なんですか?」
 十時さんが尋ねた。
「はい。テレビアニメの収録は通常、三時間から五時間――六時間拘束なんていう現場もあります。その間、我々は人間ですから当然お腹も空くわけです。もし、スタジオ内でお腹が鳴ったら感度の高いマイクが音を拾ってNGになってしまう。それを防ぐために、いつでも軽くつまんで食べられるようにお菓子が用意されているんです」
 皆さんも食べて大丈夫です。と説明をする森永の声を背にした美優は、重厚そうな扉に目を奪われていた。木枠の上には赤字に白抜きで『収録中』と書かれたランプが消灯している。
「その部屋に興味おありですか?」
 森永響に声をかけられて、美優は余所余所しく、はい。と応える。
 むしろ、声優志望でこの部屋に興味ない人なんているんですか?
 二人きりなら、きっとこう返していた。
 そんな美優を尻目に、森永響は銀色のドアノブに手をかける。
「じゃぁ少しだけ見てみましょうか」
「いいんですか?」
 すかさず最上さんが声を上げた。心なしか頬が紅潮している。それは、さよりさんも十時さんも同じだった。
「えぇ。見学なので大丈夫ですよ」
 言いながら開ける扉は、普通の扉よりも二倍ほど分厚い。ゆっくりと開かれる世界に美優は思わず目を凝らした。
 仄暗い室内の向こうにテレビモニターが見えるのは、部屋の右側から光が漏れているおかげだ。森永響が一歩また一歩と入っていくので、美優たちも続いて室内へと誘われた。
「ここが収録スタジオ。声優はここで収録を行います」
 向こうの壁にテレビモニターが壁に等間隔に3台掛けられている。部屋の真ん中にはコンデンサーマイクが4本、これも等間隔に立っていた。
「我々声優はあのモニターに移された映像を見ながら、このマイクに声を吹き込んでいきます。ですが全員が立って出番を待つには手狭なので――」
 森永響が目を向けた先には、ロビー側の壁を背に椅子がぐるりと並べられていた。
「――出番の少し前までは椅子の前に立って待機します」
 美優はあと何時間もしない先の、この部屋の景色に思いを馳せた。
 ここに名立たる声優が腰を掛け、マイクに声を吹き込む。
 想像するだけで美優の胸は震えた。
 いつか、自分もここに立てるのだろうか。
 あの人と――『しろねこさん』と肩を並べることができるのだろうか。
 ああ、出来るなら――自分に自信が満ち溢れているときにここに来たかった。
 今の自分では、声優になって『しろねこさん』と肩を並べるだなんて、到底届かない夢だから。
「と」
 森永響の声が美優を現実へと引き戻す。
「中はこんな感じです。まぁ多分、皆さんはあちらのコントロールルームでの見学となると思うので、あちら側から我々の動きを見て勉強してください」
 森永響が視線を送った先にはガラスで隔てられた部屋がある。コントロールルームだ。室内にはスタッフと思わしき人物が数人、会話を交わしたり作業をしたりと忙しなく動いている。
「で、あの真ん中に座られているのが音響監督です」
 手で示した先には男性が一人、俯いていた。おそらく手元の機材か何かを触っているのだろうか。
 と、ふと彼が顔を上げたかと思ったら、かすかに表情を変えて手招きを始めた。森永響を呼んでいるのだろう。
「呼ばれてますね……」
 微かに眉間にしわを寄せて。森永響がスタジオから出たので、4人も続く。そして森永響は、スタジオからもう一つ奥のコントロールルームに続く扉をノックした。
「おはようございます。東京ボイスアクターズ所属、森永響です。本日もよろしくお願いいたします」
 と頭を下げた。
 室内からはまばらに挨拶が聞こえる。
 スタッフさんだろうか。
 そんな中で気だるげにひょっこりと顔を覗かせたのは、ゆるいパーマ頭の中年男性。服装もどこか緩い。
 男性は美優たち四人と目が合うと、小さく頭を下げた。
「おはようございます。音響監督の支倉琢也です。よろしくお願いします」
「おはようございます。よろしくお願いします!」
 彼はこの現場のトップでもあり、自分を売り込むべき相手でもある。気だるげな挨拶でも、美優たちの挨拶には気合が入る。
「ご丁寧にありがとうございます。でちょっとごめん、早速なんだけどさ」
 支倉はそういうと、ちょいちょいと四人を手招いて室内に入っていった。
 森永が避けて道を開けたので、四人は「なんだろうね」と、お互いの顔を見合わせながら室内に入った。
 コントロールルームの左手には巨大な音響機材が横たわり、大きな窓の向こうにはスタジオルームが見える。
 室内には何人か人がいたので軽く頭を下げて挨拶をしていると、支倉音響監督は機材の真ん前の椅子によいしょと腰を下ろした。
 何を言われるんだろう。
 ふと横を見ると、さよりさんも最上さんも十時さんも表情を硬くさせている。恐らく自分も同じような顔つきでいるのだろう。
 支倉音響監督は、機材の上に置いていた台本を手に取ると、部屋の中で作業をしていた若いスタッフさんに声をかけた。
「志藤くんさ。ちょっと悪いんだけど、これから来る声優さんに『支倉立て込み中に付き、直接スタジオ入るよう』に言っててくれない?」
「分かりました」
 スタッフさんが返事をしてコントロールルームから出ていくと、目線の先にいた森永響にも指示を出す。
「森永もスタジオ入ってていいわ。大事な後輩予備軍、お借りしまーす」
「あ、はい。分かりました」
 森永響も軽く会釈をして扉を閉めると、ほどなくしてガラスの向こう側に姿を現し、部屋の奥の椅子に腰を下ろして鞄な中身を探り始める。
「さて」
 支倉音響監督はこちらへ向き直ると足を組んで、気だるげな目で四人を見上げた。
「きみたちってさ、養成所でアフレコレッスンとかしたことあるの?」
 問われ。
「いえ、ありません」
 最上さんが代表で返した。
「あーそっか。東ボイは専科でやるんだっけー」
 眉間に手を当てながら支倉音響監督がつぶやいて、そっかそっかと納得する。そして手にしていた台本を何ページもぺらぺらめくり戻りをして、うーんと唸りながら何かを考え、ふと顔を上げた。
「……君たちさ、このアニメ観たことある?」
 問われ全員が返事をした。
 美優はこの仕事を志して以降、気になった声優が出演する作品や、もともと原作を追っていた作品は視聴するようにしている。
『ZERO PLUS』は原作を追っていた作品だ。
 育ての叔母が死に天涯孤独となった少女カイミは、生き別れとなった兄・カスイを探すため、この世のすべてを知るという『ZERO』という存在を探す旅に出る。
 途中、同じく『ZERO』を探す人狼のクウウ、竜人のカスミ、天使のアイサ、のギンガと合流し、力を合わせて苦難を乗り越える中、友情や愛情を育んでいく。
 そんなカイミたちを狙う謎の集団『無の四天王』は、あの手この手でカイミたちを妨害する。少女漫画が原作でありながら、残虐な展開も多いファンタジー作品だ。
「そっかそっか、なら話は早いわ」
 支倉音響監督は少しだけ口の端を上げ、続ける。
「台本、事前に渡してるんだけど、今日持ってきてるよね。出してもらっていい?」
 支倉音響監督に言われ、四人は各々のカバンから台本を取り出した。
「それ、中身読んだ?」
 また四人が読んできた旨の返事をする。
「そっかそっか、勉強してきたんだね。で、読んだならわかると思うんだけど、登場人物とキャスト一覧のページに、声優が決まってないキャラいたでしょ、ちょうど四人」
 言いながら支倉音響監督は手にしている台本をぱらぱらとめくり、ふと顔を上げた。
「男性ふたり。台本のXページ開いてくれる? カットXXXのところ」
 最上さんと十時さんは指示通りに台本を開いた。二人に倣って美優とさよりさんも同じように台本を開くと、右側のページには、こう記されていた。
『CXXX|道を歩く少年たち|少年A「あのクウウが、ゼロを探す旅に出ていたとは、驚いたよね」』
『             |少年B「ガキの頃は俺らの後くっついてくるだけだったのに……すげぇなぁ」』
「ここ、少年AとBが最初に出てくるとこね。女性陣はXページ開いてくれる? カットXXXのところ」
『CXXX|食事を運んでくる少女|少女「みなさん、たくさん召し上がってくださいね」』
『CXXX|少女の後についてきた子ども、よたよたと果物のかごを運んでいる|子ども「むらでとれたくだものなの」』
「ここ、同じく少女と子どもが最初に出てくるところ」
 と支倉音響監督は独り言のようにつぶやくとキャストページを開いて、ふと最上さんを見上げた。
「君、名前は? 漢字も教えてね」
「はい、『最も上の葉は遠い』と書いて最上葉遠です」
「もがみ、はおん。ね」
 支倉音響監督は台本に文字を書き込みながら最上さんの名を復唱し、今度はちらと十時さんを見た。
「君は?」
「姓は時間の十時、名はおうし座の昴で、十時昴です」
「ととき、すばる。君は?」
「方角の北にはらっぱの原できたはら、さよりはひらがなです」
「きたはら、さより。最後、君は?」
「色の名前の藍に、小川の意味の沢、美しく優しいで、藍沢美優です」
「あいざわ、みゆう。はい、ありがとう」
 支倉音響監督はうーんと鼻を鳴らすと口に手を当て考え込んだ。しばらく動かずにいたが、椅子をギシリと鳴らして背もたれに体を預けた。
 何が起こるんだ。
 何が起こっているんだ。
 なんで台本の確認をしたんだ。
 なんで名前を聞かれたんだ。
 そう思っているのは美優だけではない。おそらく全員がそう思っているだろう。
 これじゃ、まるで――。
「……声の感じだと、村の少年Aを最上くん、Bを十時くん、少女が北原さんで、子どもが藍沢さん。かなー」
 支倉音響監督は、ひとしきり独り言をつぶやいて。
「キャラの名前は――」
 再度うーんと唸って支倉はくるりと後ろを向いた。
 その先にいたのは、メガネをかけた中年の女性。
「斉木先生、どうしましょう? キャラの名前なんですけど」
 支倉音響監督がその人の名を呼んで、美優は思わず息を呑んだ。
 斉木先生――斉木麻弓先生といえば、『ZERO PLUS』の原作者でもある漫画家だ。
 原作者がアフレコ現場を見学されるという話はよく聞くし、他作品ではあるがレポート漫画も読んだことがある。でもまさか、今日いらっしゃっているとは。
 斉木先生はそうですねぇと穏やかに言う。
「学生さんたちのお名前からもじるのはいかがでしょう? 皆さんとても素敵なお名前ですし、いいと思います」
「貴重なご意見、ありがとうございました」
 斉木先生に頭を下げた支倉音響監督は、再び台本に向き合うと、ペンを構えた。
「……AがオンでBがバル、少女がヨリで子どもをユウ」
 名前のなかったキャラクターに二重線が引かれ、名づけられていく。
 スタジオ内に声優が続々と入っていくのが見える。声優雑誌のグラビアでよく見る顔から、全く知らない顔まで。昨日ご挨拶をさせていただいた小倉さんが椅子に座り、隣にいる森永響にちょっかいをかけている。
 ただの見学だけであったなら、このガラス越しに見える声優の姿に静かに大興奮していただろう。
 しかし今や、そんな心の余裕すらない。
 口を尖らせながら三色ペンで台本に4人の名前を書いていく支倉音響監督。その手元には、確実に記されている。
『役名『ユウ』 声優『藍沢美優』 所属『東京ボイスアクターズスクール本科』』
 台本に記入された名前を見て、動揺しないわけがない。現に、横並びになったさよりさんと十時さん、最上さんも呼吸が止まったように静かだ。
 これじゃ、まるで――。
 支倉音響監督はこちらも見ずに言った。
「――モブだしまだプロじゃないから交通費程度しか出せないけど、これを声優デビューって言ってもいいよ」