東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・3

 あれから二日経った。
 上野駅。
 常磐線のホームから中央改札口を出て腕時計に目を落とした美優は、本日何十いやなん百回目のため息をついた。
 コンコースはこんなに明るくにぎやかなのに、気持ちはとても落ちている。
 足取りも重く待ち合わせ場所の『翼の像』の足元につくなりため息をもう一つ重ねる。
 一番乗りである。
 集合時間は午後3時。
 今は午後2時45分。
 早く着きすぎてしまった。
 学校を出たときには遅刻寸前到着を覚悟したが、ふたを開けてみればこの状態。
 学校の制服の乱れを直すついでにもういっこため息をついた美優がうつろに地面に目を落とすと、結んでいない長い髪がさらりと垂れた
 昨日はあまり眠れなかった。
 憧れのアニメ収録現場であるスタジオに行けるという楽しさと緊張もあったが、第一に『自分が選抜で行ってもいい場所なのだろうか』とずっと考えてしまっていた。
 さよりさんはクラスのエースで、最上さんはジャンルは違えど、もうすでにセミプロの芸能人。十時さんも選抜されただけの素質や度胸もある。
 美優だけが何もない。
 いや、ないならまだいい。
 足りてないのだ。
 素質も、演技力も、基礎力も、度胸も、気持ちも、自信も。
 こんな自分が現場で何を学ぶというのか。
 何を吸収するというのか。
 現実から逃げ出したくて、一度は辞退を申し出ようと思った。
 だから、事務所のフロアまで赴いて直々に辞退しようと思ったのに――。
 セーラー襟のスカーフを結び直して、思い出すのは一昨日のこと。
『明後日のスタジオ見学、よろしくお願いしますね。期待してますよ』
 あの人の言葉と微笑み。そして指すような視線は、美優を逃がしてはくれなかった。
 もしかしてあの人は、自分をレッスン生だと勘違いした女子高生を晒し者にしてつぶす気なのか――なんて被害妄想も生まれてくる。
 ならば。
 あたしなんか選んでくれなくてもよかったのに。
 いじわる。
 嫌い。
 肩から下がりそうなリュックの肩紐を上げるのとは対に、どんどん落ち込む気持ちに折り合いがつかないまま数分。何度目かのため息をついた美優の気分は、目の前に現れた人物によって、さらに最低潮に押し下げられた。
 森永響だ。
「おはようございます」
 待ち合わせ場所に2番目にやってきたのは、緩めのジップパーカーにジーンズ姿のゆるく遊ばせた森永響。ショートヘアは昨日の事務所ロビーで見た時より、さらに明るく見えた。
 あたしの気持ちが暗すぎるから、今は何を見ても明るく見えるんだろう。
 美優はそう思いながら。
「……オハヨウゴザイマス……」
 よそよそしくも形式上の挨拶をして目を逸らす。
 森永響は美優から少し離れたところに立つと、改札の向こうを眺めながら言う。
「まだ誰もきていないと思っていたので、びっくりしました。今日はよろしくお願いしますね」
「……はい、ヨロシクオネガイシマス」
 小声で返す美優には、気になることがあった。
 森永響に距離をとられてしまっていること。60センチ、片手を伸ばしたほどの距離だ。
 ああ、そんなにあたしと並びたくないのか。
 さっきまで嫌い嫌いと呪っていた相手とはいえ、こうも露骨だとさすがに傷つく。
 こっちだってあんたなんかと並びたくないし。と距離を開けてやろうと右足を開いたその時。
「基礎科ちゃんって」
 急に話しかけられて開いた足を元に戻す。
 基礎科ちゃんってあたしのことか?
 声に出したら『自分の実力は基礎科相当です』と認めることになるようで、美優は返事をしなかった。
 森永響は美優の方を見ることなく話を続ける。
「千葉の人でしたっけ? さすがに銚子とかからだと来るの大変だったんじゃないですか?」
「……学籍簿のコピー見ながら、あの自己PRご覧になったんですよね? あたしの住所、銚子って書いてありました?」
「あの時、俺が学籍簿のコピーを資料にしてたって、よくわかりましたね。そこまで視野が広かったらあの発表も余裕だったんじゃないですか?」
 嫌味に、美優は思わず鼻息を荒くして森永響の足元を睨んだ。顔まで目線を上げて睨む度胸はなかった。
 森永響は続ける。
「それに、個人情報保護の観点から、住所とかは黒塗りですよ」
 嫌味で尋ねたのに正論で返されて、美優は押し黙る。
 レッスン室の中央から真正面のあんたの机の上、丸見えだったぞ。
 こんなこと言い返しても疲れるだけだ。
 返事をしない美優を尻目に、森永は感慨深げに言う。
「いいトコじゃないですか、銚子」
「……銚子は確かにいいところですけど、あたしの家は太平洋に面してません……」
 これって、初日のレッスン前にやった不毛なやり取りの再来か?
 美優は小さくため息をついた。
 その、ため息を最後に沈黙が訪れる。
 上野駅の構内は賑やかで、誘導用電子チャイムが規則正しい感覚で鳴り響き、行き交う人々の靴音や話し声、電車が到着する車輪のブレーキ音や電車の発車を知らせるチャイムの音が絶えず聞こえている。
 このまま時間だけが流れて、最上さんと十時さん、さよりさんが来てくれたらいい。
 ちらと改札を見ると、森永響はまだ向こうを見ている。頬が動いた。
「……今日って学校あったんですか?」
「あたしの服装見てそれ言ってるんですか?」
 目線を床に落として皮肉で返す。
 森永響とは嫌い同士なのだから、これくらいは許されるはずだ。
 返答はすぐに返ってくると思っていたのに、森永響はしばらく何も言わなくて。
 ちょっときつすぎたかな。と、罪悪感から根負けしてしまった。
「……まぁ、ありましたよ。学校……」
「……そうでしたか」
 森永響は続けた。
「銚子からだと、早退したんじゃないですか?」
 また銚子を出してきたか。
「だから。銚子在住でもなければ在学でもありません。それに、早退もしてません」
 呆れながらも答える。
 通っている高校は、特急も止まる主要駅から歩いて5分の立地。今週は掃除当番じゃなかったから、最終授業が終わってすぐ学校を出ることができた。
 立地と駅。この二つの幸運がなかったら確実に参加できなかっただろう。
 まぁ、道すがらは走ったのだが。
「そうでしたか。一番乗りをされていたので、無理されたのかと思いまして」
 森永響の声色が少しだけ緩んでいる気がした。
 だからほだされてしまったのか。
「……無理はしてないです。ヘタクソ下っ端は一番最初にいなきゃいけないものなので……」
 皮肉を込めても毒気が抜かれてしまう。
 それに、たとえ悩みがあったとしても学校があっても、嫌いな奴が引率でも憂鬱でも、夢にまで見たスタジオ見学だ。ギリギリで到着するなど、考えられない。
 森永響は美優の返事に、そうですか。と穏やかにつぶやいて続けた。
「遅刻されるよりずっといい。いい心がけだと思いますよ」
 思いがけず褒められて、心がざわっとする。
 なんだ急に。
 きもちワルイナ。
 でも褒められて悪い気はしない。
「あ、ありがとうございます……」
 そっぽを向いたままつぶやいてみる。
 案外いいところあるのかな。と思った矢先。
「髪の毛すっごく乱れてますけどね」
 と、落とされた。
「……!」
 美優は息を呑むと後頭部に両手をやった。いつものサラリとした感じがない。
 学校から駅までの間、走ったから乱れたのだ。
 乱れたまま電車に乗り、ここまで来てしまったのだ。
 背負っているリュックの中に櫛はあったが、出している余裕もない。
 そういうことは早く言ってください! とも言えず美優は真っ赤になりながら慌ただしく手櫛で髪の絡みを解き始めた。
 やっぱり櫛で溶かした方がいいかな。と、背負っていたリュックを降ろそうとしたとき。
「ところで、昨日はちゃんとお休みになりましたか?」
 と声をかけられる。
 森永響は、まだ向こうを向いている。
「それなりに寝ましたけど」
 リュックの外ポケットから柘植の櫛を取り出しながら返す。
 本当はそんなには寝ていない。体感で3時間くらい気を失ったという感じだ。授業中も何度か気を失いかけたけど、高校が始まったばかりの4月に居眠りなどできないから、気合で乗り切った。
 櫛で髪をとかし始めると、森永響が言う。
「収録は長丁場なので、ちゃんと寝ておいて正解ですよ。それに、しっかり睡眠をとることも喉にはいいですからね」
 美優は思った。
 あたしを寝不足にさせた張本人が、どの口でそんな言葉を言うんだ。
 口を尖らせながら毛先の絡まりを梳いていると、肩をちょんとつつかれた。
 ちらと見ると軽く握られた拳が伸びてきていて、その中に青く小さな小袋が覗いている。
 のど飴だ。
 目線を上にあげると、今日初めて、色素の薄い瞳と目が合った。
「舐めます?」
 横目でこちらを向いている瞳は自然光に照らされて、宝石みたいにきらりと輝いている。童顔ではあるが整った顔立ち
 美優は思わずぷいっとそっぽを向いてしまった。梳いていた髪がまた乱れる。
「……けっ結構です。……し、知らない人からお菓子もらうなって、親に言われてますので」
 思わぬ物言いだったのだろう。森永響は思わず噴き出した。
「っ。小学生ですか」
「数年前まで小学生でしたけど」 
 訝しげに睨むと、笑った森永響と目が合った。  しかし目が合うと、森永響は咳払いをして、また美優から目線を外してしまう。
「まぁ、皆さんに配る予定でしたので、もらってやってください」
 それならば。と美優は、差し出された手の下に左手を出した。
 てのひらに指が当たると、指が離れる代わりにぽとっと落ちる飴の小袋。
 間髪入れずに聞こえるのは、明るめの癖のない声。
「なんで昨日、あんな所にいたんですか?」
 美優は思わず森永響を見た。
 森永響も美優を見ている。
 彼が言う『あんな所』とは、あのビルの事務所フロアのことを指すのだろう。
 何の感情もないような色素の薄い茶色の瞳は、美優の本心をも見透かしてくるようで。
 美優は気まずそうに眼をそらし、飴が落ちた手をぎゅっと握りこんでおろした。
「……関係ないと思いますが」
 本当は大いに関係がある。
 森永響はあのフロアの部内者で、美優は部外者。
 事務所階より上層は東京ボイスアクターズの事務所であり、養成所生は入れない。入れるとしたら、事務所のスタッフに呼ばれた時だ。それでも入室するのは畏れ多くて、レッスン生ならだれでも躊躇する場所。
 それを美優は、意図も簡単に冒したのだ。
 だから、森永響には美優を咎める理由がある。
「……関係ない。ですか」
 森永響は溜めに溜めて呟いて、続けた。
「いいですよ、それで。俺は基礎科ちゃんを断罪したいわけじゃない、ただの好奇心ですから」
 森永響は自分の服のポケットからのど飴の小袋を一つ取り出して破き、つまんだ飴を口に放る。
 そして、ただ、と続けた。
「この見学を辞退したい。って申し出たくて赴いたのなら……と思いまして」
「っ辞退したいだなんて……そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
 美優は、思わずムキになって否定してしまう。これでは図星であるといってるようなもの。
 対して森永響は、余裕の表情を見せている。
「ですよね。スタジオ見学の選抜を辞退したレッスン生で、声優になれた人は一人もいませんから」
 そう言うと彼は再び改札を見て、手を上げた。
 見知った三人を見つけたからだ。
「辞退者が声優になれないなんて、当然のことです。まぁ、今まで見学を辞退したなんてレッスン生は、一人もいませんけど」
 ダメ押しにつぶやかれた言葉に、美優は何も言えなくなってしまった。
 森永響という人間は、こうやって人を追い込んでいく人なのかと憤った。
 同時に、自分という人間は、勢いで逃げようとする人間だったのだ認識してしまって、悔しくなってしまった。