東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・2

 後に発表した人の演技を見るたびに、美優は落ち込んでいた。
 自分以外は皆、ハムレットでオフィーリアだった。
 ダメ出しはされていたけどお手本の代役なんていない。
 あたしだけが、オフィーリアじゃなかった。
 あたしをオフィーリアに選んでくれた相手にも申し訳なさばかりが募った。
 あたしと組んで、いやな気分にさせてしまった。惨めな思いをさせてしまった。
 発表終わりにごめんなさいって謝って以来、顔も合わせられなかった。
 それでも最上さんは何も言わずに隣にいてくれた。
 本来ならば、来週までにしっかりオフィーリアを作り上げてくる意気込みでいた方がいいに決まってる。
 だけどそんな気持ちにはなれなかった。
 逃げ出したいとさえ思った。できれば、来週も再来週も、逃げていたい。
 どうせダメに決まってるんだから。
 だけど。
 ここで逃げたら夢はかなわない。
 来週もハムレットとオフィーリアの演技を披露しなければならないし、第一に明後日はスタジオの見学がある。
 事務所の人やあの人に『現場を見てこい』ってせっかく選んでもらったのだから、気持ちを切り替えないといけない。
 ロッカー裏で着替えを終えてフロアに出てきた美優を待っていたのは、レッスンも二回目にしてすでに出来上がってしまったクラスカーストの得も言えぬ空気だった。
 入所試験本科合格でオフィーリアを完璧に演じたさよりさんと、劣等生のお手本となった早坂さんを頂点に、迫真の演技を見せた最上さんや、冷酷非道なハムレットを演じきった十時さん、それぞれのハムレットなりオフィーリアなりを演じた本科二年目の人たちなど、演技が上手い人が下に続く。
 美優は思う。
 底辺の一番下は、ただ声だけが特徴的なだけで演技力の基礎もなってない自分だろう――。
 こういう時、人は露骨だ。
 特に女子は上位の元に固まろうとする傾向にあるようで、早坂さんの周りはにぎやかであった。
 当然、さよりさんの元にも何人か人が話しかけに行っていて、さよりさんもにこやかに彼女たちの対応をしていた。
 それに割っていったのは早坂さんだ。
「ねぇ北原さん、この後時間ある?」
 柔らかな声色で、さよりさんに話しかけた。
 先週、さよりさんあれだけを詰ったのに……。
「どうして?」
 早坂さんの声掛けに一瞬は警戒するような表情を浮かべたさよりさんは、人当たりのよい笑顔を見せた。
「皆とご飯食べに行こうって話になったから、北原さんもどうかなーって思ったの。皆さんもどう?」
 甘い声でさよりさんと彼女の周りにいる女子たちを誘う早坂さんの視線は、美優に向いていた。目を薄く開き口角も上がっている。
 美優はあの表情を知っている。
 あれはいじめっ子の表情。
 直感で分かる。
 あたしはこの後、仲間外れにされる。
 胸のあたりが冷めるような、苦しいような強烈な不快感を感じて、美優はばっと目を逸らした。
 さよりさんは少し考えたみたいで返事まで少し間が開いた。
「お誘いありがとう、早坂さん」
 明るい声で答える。
 あぁ、お誘いを受けるんだ。
 言いようのない悲しみが美優を苛む。
 さよりさんも早坂さんみたいなレベルが高い子と一緒にいた方がいい。こんな落ちこぼれといたら、彼女にもよくない。
 そう思う卑屈な自分がなおさら惨めで。
 消えてしまいたい。
 レッスン室から出て行こうと足早に踵を返し、ぎゅっと目を閉じた刹那。
 咄嗟に手を掴まれたかと思ったら、後ろにぐっと引き寄せられたのだ。
 え。っと声を上げ、肩がトンとぶつかって、気が付けば端正な横顔が至近距離にあった。
 さよりさんだ。
 さよりさんは、早坂さんに笑顔を見せて言う。
「だけどごめんなさい。わたし、美優さんと約束をしているの。ね、最上さん、十時さん」
 目線の先には、十時さんと最上さんがいて。
「あ、おう……ソウダナ」
「うんうん、してた。ヤクソクシテタ」
 と三文芝居を打ってしまうほど、さよりさんは強引だった。
「なら、みんなで――」
「明日の打ち合わせですけど」
 さよりさんが早坂さんの誘いにぴしゃりと言葉をかぶせると、早坂さんが言葉を止めた。
 明日の打ち合わせ――スタジオ収録見学のこと。
 部外者の早坂さんたちが参加したところで、スタジオ収録見学組との間に壁が出来上がるのは明らかだ。
 早坂さんの眉根が動く。さよりさんはそれを見届けると、一層清々しく笑んだ。
「では、わたしたちはこれで。お疲れさまでした」
 さよりさんは小さく会釈すると、ポカンとしている早坂さんをはじめとした養成所生たちを残し、美優の手を引いたままレッスン室を後にした。そのあとを最上さんと十時さんが続く。
 磨りガラス扉が静かに締まる音を背にしても、さよりさんの足は止まらない。むしろ、レッスン室を出た後の方が歩幅も大きいし歩き方も乱暴だ。
 さよりさんに腕を掴まれてから今までの出来事が想定外で、あれよあれよという間で。美優が声を上げることができたのは、下駄箱の少し手前だった。
「……と待って、さよりさん。あたし約束なんて……!」
 さよりさんは自分の靴に指を掛けているところで。ふぅと息を吐いて冷静さを取り戻し。
「約束はしてない。してないけど……あれくらいの当てこすりは許されるでしょ?」
 不機嫌に口ごもるさよりさんは、下駄箱から取り出したパンプスをリノリウムの下足スペースに落とす。そんな彼女の様子に、自分の靴を引き出すもの忘れている美優の隣。十時がごつめのスニーカーを引き出した。
「あれだろ。あの人たちがあんたをハブろうとしたから、腹立ったんだろ?」
「なかなか男前……惚れちゃいそう……」
 おちゃらけて見せた最上さんもローファーを理下足スペースに下ろして、さよりさんに続いて靴を履く。
「……」
 さよりさんはバツが悪そうにしながら靴を履き終えると、そのまま外へと出て行ってしまう。
 美優は三人に置いて行かれないように急いで靴を履き、十時さんと最上さんに続いて外に出ると、さよりさんを追った。
 夕方特有のオレンジの世界が、美優を急かす。
 さよりさんは軽快に階段を下っていた。
 美優も後を追って階段を下りてゆく。
「あの、さよりさん……」
 言いたいことも聞きたいことはたくさんあった。けど、何から聞いていいのか頭が混乱していた。
 だけど、お礼くらいは言わなきゃ。
 あのまま彼女が引きとめてくれなかったら、惨めな気持ちを抱いたレッスン室を飛び出して、一時間近く電車に揺られることになったのだから。
 最上さんと十時さんを追い越して。さよりさんに置いて行かれないように階段を掛け降りて。やっと追いついたところで彼女に手を伸ばした。
「さよりさん!」
 肩を掴まれて立ち止まったさよりさんの表情は、あたりが真っ暗で伺えなかった。だけど、何かに嫌悪しているのはわかる。
「あ、あの……、ありがとう……」
 美優の言葉に、さよりさんはうんうんと頷いた。
 一応、感謝は受け取ってもらえた。と美優は小さく安堵する。
 だけどさよりさんは、まだこちらを見てくれない。その代わりに、呟き声が聞こえた。
「あぁいう陰湿なの……わたしが気に入らないのよ」
 陰湿。
 確かに。
 さよりさんは続ける。
「それにわたし、馴れ合いも好きじゃない」
 その呟きにさよりさんの華奢な肩に触れていた美優の手が不意に離れた。
 さよりさんの吐露は続く。
「何のための養成所? 他人見下して気持ちよくなるため? 声優になるためじゃないの? 仲良しクラブだったら他でやってほしい」
 その言葉は美優にとっても青天の霹靂だった。
 美優にとって今まで養成所のクラスメイトは、一緒に楽しく演技をする友達だった。伊坂先生にダメをもらって落ち込んだら励まし合って、良かったところは褒め合って。
 声優になろうね、一緒になろうね。みんなで声優になろうね。
 そうやって美優はジュニアコース時代を過ごしてきた。
 あれは、馴れ合いだったのだ。
 ジュニアコースではそれが通用した。恐らく基礎科でもそんな空気はあったのかもしれない。だから早坂さんたちは美優を省いて結束を固めようとしたのだ。
 しかし、今は過酷な競争の中。
 激しく流れる濁流に逆らって遡って、生き残った者だけが上流にある憧れの景色を見ることができる。
 そんな激しい競争の渦中なのだ。
 本科からスタートしたさよりさんには、本科に進級してもなお、馴れ合いと陰湿さを引きずるクラスメイトが異様に見えたのだろう。
 美優は思った。
 一歩間違えたら自分だって、馴れ合いはしていた。
 自分はクラスで一番年下だから、皆が自分に配慮してくれるかもしれない、優しく接してくれるかもしれないと、心のどこかで思っていた。
 後ろから来ていた最上さんと十時さんも立ち止まってさよりさんの独白を聞いていた。
 美優は我に返る。
 そして自分の認識の甘さが無性に恥ずかしくなった。
 明日、この意識が高い人と一緒にスタジオ見学に行くの?
 無理だ。
 今のままじゃ、何しに行くのかわからない。
 それを自覚して美優は、いてもたってもいられなくなった。
「……あ、あたし……」
 嘘はさらりさらりと口をつく。
「レッスン室に忘れ物しちゃった。だから、お構いなく三人でご飯どうぞ!」
「美優さん!?」
 さよりさんの声を背に、踵を返して階段を駆け上がった。
 駆け上がりながら願った。
 上から降りてくるクラスメイトと鉢合わせになりませんように。
 あの三人が自分を追いかけずに夕食を食べに行ってくれますように。
 無我夢中で三階の踊り場を速足で駆け抜け、四階五階と駆け上がってきた美優は、そのガラス扉を何の躊躇もなく開ける。
 薄明りのロビーの奥、一番真っ先に目に映ったのは、フロアの奥の事務所の明かり。
 スタッフさんはいる。
 高崎マネージャー。居たら、彼女に言えばいい。
 もしいなかったら、室内にいる誰かに言えばいい。
 明日のスタジオ見学の話はなかったことにしてください。と。
 考えながら靴を脱ぎカーペット敷きの歩を進めていくと、事務所の扉が開いて人が出てきた。その人は美優の姿をとらえるや否や駆けてきたので、美優は思わず身構えた。
「藍沢? 何やってるのこんなとこで」
「……伊坂先生……!」
 よく見ると、その人はジュニアコース時代の恩師。美優は安心して続ける。
「あ、あの、事務所に高崎マネージャーはいますか?」
「高崎さん? ちょっと、話が見えないんだけど。……どうした?」
 伊坂先生に問われて、今まで抑え込んでいた感情が喉元までやってくる。だけど何か言葉を発したならいよいよ泣き出してしまいそうで、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 相談するか、しないか。
 相談して楽になってしまいたい。
 伊坂先生なら、あたしを助けてくれるかもしれない。
 本科に上がって、先生が褒めてくれた自分らしい演技が全然できてない。
 お芝居が、楽しくない。
 こわい。
 後はこのまま口の動くまま、感情を吐き出してしまえばと小さく息を吸う。
「あ、あの――」
 その時、美優の背後で扉が開く音がしたて、フロア内に誰かが入ってきた。
「あ、トキオさん、おはようご……あれ、基礎科ちゃんじゃないですか? 部外者立ち入り禁止ですよ、ここ」
 美優は思わず息を呑んだ。
 この声、このしゃべり方。この呼び方。
 森永響。
 よりによって、こんなタイミングで……。
 喉を鳴らして押し黙る美優。
 そんな美優をかばう様に、伊坂先生は少しむっとした表情を見せた。
「おいおい森永。基礎科ちゃんって誰のこと?」
 かすかに砂の音がする。下駄箱に靴を入れた音だ。
「あ、ごめんなさい。藍沢さんでしたね」
 森永響は穏やかな声を出しながら二人に近づくと、思いっきり顔をそらしている美優の顔を覗き込む。
 美優はぴくっと反応して嫌悪感を示したが、信頼している恩師の手前、横目でちらりと伺いつつもおずおすと頭を下げた。
「おはようございます……」
 一応挨拶もしておく。
 対して伊坂先生はさらにむむっと眉根を寄せた。
「ちょ、おま。藍沢は基礎科ちゃんじゃないよ、本科ちゃん! ついでに俺の教え子!」
「あぁ、ジュニアコース時代、トキオさんのクラスだったんですね」
「そ! ジュニアコースから本科進級の快挙を成し遂げた自慢の教え子! ……って、二人知り合いなの?」
 養成所のレッスン生と所属声優が、仲の良し悪しはどうであれこんなに親しいのは珍しいこと。伊坂先生は美優と森永響を交互に見る。
「ええ、先週の模擬オーディション実習、彼女のクラスを担当しました。彼女の発表は素敵でしたので、印象に残ってたんですよ」
 森永響はそう伊坂先生に説明する。
 微塵もそんなこと思ってないくせに。
 微かに息を吐いた美優。
 森永響はそんなことを意ともせずに、美優に微笑みかけた。
「明後日のスタジオ収録見学、よろしくお願いしますね。期待してますよ」
 傍から聞けば意味そのままの言葉。
 けど、ふと美優に向けられた目が、笑っていなかった。
 その言葉も、こう言っている。
 逃げるな。
「では、失礼します」
 森永はそう言い残し、事務所内に入っていった。
 ますます重くなった気持ちは美優を縛る鎖となる。さっきまで出かかってた言葉が、引っ込んでいってしまった。そんな美優と引き換えに、森永響に対して不機嫌だった伊坂先生は、目を丸くしていた。
「……藍沢、あの、森永が言ってたスタジオ収録見学って……クラス選抜で収録スタジオに行けるってやつ……!?」
「はい」
「藍沢選ばれたの? すごいな!!」
「あ、いえ、そんなことは……」
 そう言いかけて、口を噤む。
 収録スタジオ収録見学のメンバーに抜擢されて、こんなにも喜んでくれている伊坂先生に心配をかけるわけにはいかない。
p 「……ありがとうございます」
 絞り出した言葉に笑顔を添える。
「がんばれよ!」
 伊坂先生は、ぽんぽんと美優の頭を撫でた。
 このあたたかな手は、あの日々のままで。
「で、高崎マネに用事? 俺取り次ごうか?」
 美優は誤魔化すように頭を横に振ると、さらに笑んでみせる。
「いえ、当日のご挨拶にと思ったので。でもよく考えたら、他の参加者と来るべきでした。抜け駆けみたいでよくないですよね。すみません、失礼します」
 勢いよく言って頭を下げると、伊坂講師は一瞬何か言いたげに微かに口角を震わせた。
「……無理すんなよ。お疲れさん」
 と、笑顔を向けてくれた。
 美優はしっかりお辞儀の後にもう一度笑んで、踵を返す。
 踵を返し、下唇をかみしめ、思った。
 もう誰にも泣き言は言えないんだ。
 5階フロアの扉を出るころには、オレンジの夕焼けに青みがかかっていた。足元からは楽しげで明るい笑い声が響いてきて、美優は踊り場一つ分駆け下りる。手すりに体を寄せて下を見ると、14時レッスン終わりの養成所生の帰宅ラッシュが始まっていた。
 基礎科と本科で50人にもなる大移動だ。同時間にジュニアコースや専科のレッスンもあれば、人数はさらに多くなる。
 美優はぐっと目を凝らす。帰宅するレッスン生のその中にさよりさんや最上さん、十時さんの姿はない。
 もしかして連絡が入っているかもと、鞄の中に入れていたスマートフォンを見る。すると、メッセージアプリに通知があった。
『お疲れ様。忘れ物見つかった?』
 5分前。最上さんからだ。
 忘れ物。
 そういえば。
『忘れ物がある』
 そう言って別れたんだった。
『心配かけてしまってすみません。ありました』
 忘れ物なんて、本当はないんだけど。
 罪悪感を指に乗せてメッセージを送った。すると、返信はすぐに帰ってくる。
『あってよかった。じゃぁ、気を付けて帰ってね。お疲れ様。また明後日』
『お疲れ様です』
 返して、美優は安堵の息を吐いた。
 どこどこで待ってるからおいでよ。と返ってきたらまた、合流できない口実を重ねることになった。
 せっかくスタジオ収録見学に選抜してもらっておきながら辞退を申し込むような意気地なしが、あの三人と肩を並べることなどとてもできない。
 だから、あの三人が駅で別れてくれたことを知ることができて安心したのだ。
 ふと聞きなれた声がした。
 手摺から下を覗き見ると、見知った後姿を見つけた。あのキャスケットは酒井講師だ。彼を囲むように、早坂さんとその取り巻きの子たちが談笑をしている。
 笑いながら楽しそうに駅へと向かって歩いていくその背を見つめながら美優は、恨めしいような悔しいような、いやな気持が心の中に渦巻くのを感じていた。
 彼女は、さよりさんにあんなに手厳しく当てこすられたなど、忘れてしまったのだろうか。
 あたしは仲間外れにされかけたことを、こんなにも覚えているのに。
 ……以外と気にする性格だったのだな。あたしは。
 自分の心の小ささを自覚して、さらに落ち込んでしまう。
「はぁ……」
 ため息は、もう暖かくなった春の夜風に溶けていった。
 忘れ物は、まだまだ小心者で怖がりな自分の心。
 美優はそれを拾い上げて長い階段を降りていった。
 今、事務所内にいる森永響が、自分に追いつかないように。