東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・1

 土曜日。
 東京ボイスアクターズスクール、本科土曜14時クラス。
 レッスン室内に響き渡っていたのは、美優が演じる甘く愛らしい声に乗ったオフィーリアのセリフだった。
「カット!」
 酒井講師はぱんとひとつ手を打って芝居の区切りを知らせると、緊迫していた室内が一変、日常の空気へと戻った。
 レッスン室の真ん中で、絶望し項垂れた演技を終えた美優が顔をあげて立ち上がると、パートナーである最上さんはレッスン室の隅からセンターへと戻ってくる。
 今、最上・藍沢ペアのハムレットの演技が終わった。
 あとは講師が二人の演技にダメ出しして、リテイクなり終了なりを通達するのだが、酒井講師は難しい顔をして腕組みをしている。  美優は酒井講師を見つめながら、その時をじっと待っていた。
 オフィーリアという役を構築するための情報収集に時間を取りすぎてしまって、セリフの暗記がギリギリになってしまったけど、自分なりのオフィーリアを作り上げた自負も少しはある。
 ヘタなのは百も承知。けれど、最上さんの演じるハムレットとの息はあってたはずだ。
 小さな自負を抱えるだけで手いっぱいの美優とは裏腹に、酒井講師の表情は険しい。
 緊張の表情の二人に、腕組みをした酒井講師は深く息をついた。これは酒井講師が痛烈なダメを出すときの癖だ。
「藍沢、お前のオフィーリアの歳はいくつだ?」
 声色の不穏さに圧倒され、美優はぐっと引いてしまう。だけど、質問には答えなければならない。
「……18……20歳くらいです」
「20歳ね……」
 おずおずと答えた美優に対し、酒井講師のため息交じりのつぶやきは冷たい。  心の奥が冷めていくのを感じながら、美優は酒井講師の次の言葉を待った。
「藍沢」
 名前を呼ばれて、はい、と返事をする声があまりにも涙声で自分でも驚いた。
 酒井講師は続ける。
「お前の演技が他の奴にどう見えたかは知らん。20歳の娘に見えたってやつもいるだろうし、15歳……いやもっと下に見えたってやつもいるかもわからない。だけどな、俺の主観で言えば、お前のオフィーリアに年齢などない」
 え。小さくつぶやいた言葉は音にならず、酒井講師の声にあっさりとかき消される
「――人形だ。ただ決められたセリフをしゃべり、決められた動作をなぞる人形」
 酒井講師の言葉に美優の肝が冷える。
「最上の演技の間。何考えてた?」
「え……」
 酒井講師に問われ、美優は小さく声を上げて黙り込んでしまった。
 最上さんの演技中に考えていたこと――。
 自分のセリフのタイミングと、最上さんのセリフのどこがセリフの最後か。
 どういう風に言えば動けば、絶望した風に見えるか。年相応に見えるか。こう動こうあぁ動こうというプラン。p  伝えようにも、美優は言葉を発せなかった。
 酒井講師は腕を組みながら唸ったが、顔を上げた。
「質問を変える。ハムレットの声をきいて、心は震えたか? 自分の感情は揺れ動いたか?」
 ハムレットの声を聴いて。
 心が震える?
 感情が揺れる……?
 目の前の酒井講師や養成所生たちの視線がいたくて、美優は無意識のうちに足元に目線を泳がせる。
 心が震えたり、感情が揺れたりはしなかった。
 なぜなら、自分の演技が失敗したらどうしようっていう恐怖心が上回って、自分のセリフでいっぱいいっぱいだったから。
 ただただ煌々と照らす蛍光灯の光がまぶしくて。他の養成所生が自分を憐れんでいるように見えて。
 美優が顔を上げられないでいると酒井講師がイライラと頭を掻きむしりながら、しゃぁねぇな、とつぶやいた。
「オフィーリアをチェンジする」
「え」
 声を上げたのは、最上さん。
 美優は思わず顔を上げた。
 酒井講師はふたりに構わず自分の周りをぐるり見渡し、先に発表を終えたペアの中から新たなオフィーリアを指名した。
「レミ、ちょっと藍沢と変われ」
 早坂麗実さん――先週のスタジオ見学選抜発表後から美優を敵視している養成所生。先の発表では、酒井講師から高い評価を得たオフィーリアだ。
 酒井講師から直々に指名された早坂さんは、明るく返事をして美優の目の前までやってくるなり表情を一変させ、美優にしかわからないほど小さく顎で退けと指し示す。
 美優は思わず息を呑んで一歩引いてしまう。少し目線を上げれば相手役の最上さんの戸惑った顔が目に入る。
 早坂さんは美優にたいしてぷいっと一瞥し、最上さんによろしくお願いしますと頭を下げた。そしてその場に座り込む。
 フワフワの髪が彼女の表情を隠した。
 こうされてはもう彼は断れない。
「すまないが最上、レミを相手に最初からやってくれ。藍沢は正面側に回れ。レミの演技をよく見ていろ。用意――」
 酒井講師は最上さんが、はいと返事をして板に付くのと、美優が座っているレッスン生の一番はじにきたのを確認して、手を叩いて芝居を始めさせる。
 その一拍で最上さんは、いつもの柔和な表情を一変させた。
 鋭く細めた眼光で、自分に背を向けしゃがみ込んで項垂れるオフィーリアを蔑視している。
 美優は思わず身震いした。
 こんな視線を向けられていたのか。
 ハムレットは冷淡に微笑む。
「もしおまえが結婚するなら、持参金の代わりにこの呪いの言葉を送ってやる。おまえがたとえ氷のように貞淑でも、雪のように純粋でも、人はおまえを誹謗中傷するだろう。尼寺へ行け。さようなら。もしおまえが結婚することがあるなら、馬鹿と結婚するがいい。賢い奴は、寝取られた亭主になることをよく知っているからな。尼寺へ行け、すぐ行け。さようなら」
 渾身の演技に美優の背筋が凍る。
 自分が演じているときは彼を背にしていたからよくわからなかったが、彼は何通りもの表情を使い分け、声色を駆使し、オフィーリアを嘲笑い、見下し、拒絶し、嫌忌し、蔑んでいた。
 ハムレットは狂気を纏っている『ふり』をしているはず。本当は彼女のことを愛していて、こんな言葉を投げつけることも本意ではないだろう。
 彼の言葉は彼の本心か演技かは、もう彼のみぞ知る。
 こんな最上さんは見たことがない。
 一方、オフィーリアはハムレットのセリフ中も項垂れながらも頭を小さく横に振っていたが、
「おお、神々よ。どうか元のハムレット様に戻してください」
 と、独りごちる言葉は震えていた。
 絶望に打ち震え、泣いているのか?
 早坂さんの演技は、先に発表をした時よりも熱が入っているように見える。
 悲しみの淵に立たされたオフィーリアを直視していたハムレットは、ふと彼女から目線を外し、嗤う。
「おれは女たちの化粧のことも聞いているよ、よく知っている。神は女たちに一つの顔を与えたが、女たちは別の顔を作るのだ。そして気取って歩き、気取って喋り、神の創造物に別の名前をつけ、ふしだらな行状を無知のせいにする」
 身振り手振りで嗤っていた。
 その顔が一気に曇る。体を丸め頭を下げる。
 頭を抱える。爪を立てる。
「……おれはもう我慢できない、気が狂いそうだ。人間は結婚すべきではない」
 最上さんの指がコンドルクリップで止めていた前髪にかかり、派手に乱れる。
 手が下りて、ゆらり。
「すでに結婚している奴らは、一組を除いて、そのままでいい。残りは結婚しないまま生きてゆけ。尼寺へ行け」
 淡々とした力強い発声とは裏腹に、あっちへ行けと言わんばかりに振り上げた腕は実に荒々しい。
 それはオフィーリアへの嫌悪か。はたまた――。
 がっくりと項垂れたオフィーリアは背後に感じる冷たい気配に言葉一つ発することもできない。
 いや。しないのだ。
 早坂さんはじっくりと間をためて、最上さんの見せ場を作っている。
 ハムレットは振り上げた腕をため息とともに振り下ろした。そして、憎しみとも悲しみとも取れる眼差しをオフィーリアに向けた後、マントを翻して舞台を後にした。現実にはTシャツとジャージのズボンを身に着けていてマントなど装着してはいないのだが、そう見せる動きも付けたのだ。
 ハムレットが去った舞台上。
 彼の言葉の一語一句を余さず心で受け止めていたオフィーリアは、小さく頭を振りぬっと顔を上げた。
 苦悩、悲哀、悲壮。
 どの言葉を取ってつけてもふさわしい表情に、室内が圧倒される。
「……ああ、なんと高貴な心が錯乱してしまたのでしょう。洗練された言葉、勇敢な剣、鋭い洞察を持った方が、この国のバラと讃えられ、姿形の模範、行動の規範とされ、仰ぎ見る者の太陽と讃えられた方が、落ちてしまった」
 地に着けていた手が胸を掴む。ググッとこもる力はオフィーリアの無念が悲しみか。
 だが顔は常に上がっている。オフィーリアの独壇場とはいえ、俯いていたらオフィーリアの壮絶な悲しみが観客に見えないから。
「女のなかで最も落胆した惨めなわたし。ハムレット様のうれしい誓いの蜜をすったわたしが、高貴に君臨する理性が心地よい鐘の音が、突然変調するように、調子はずれで耳障りになってしまうのを見聞きしようとは……」
 両耳に手を持っていき頭を振る。その手は固く開いたまま胸の上で止まる。
「満開に咲き誇る若い容姿が狂気に荒れ果ててしまった。ああ、なんとみじめなわたし、かって見たもの、今見るもの、その痛ましい変わりようをこの目で見ようとは……」
 潤んだ瞳から零れたのは、大粒の涙。
 オフィーリアは絶望の淵で、その場に力無く伏せた。
 静寂の後、酒井講師の手がひとつ打たれると早坂さんは、ゆっくり体を起こして涙をぬぐい、いつも通り少し男受けするような所作で立ち上がった。
 さっきまでの彼女と今の彼女は、別人。
 早坂麗実という少女は、オフィーリアであった。
 酒井講師がお手本にと選んだだけの演技力が、彼女にはある。
 これが、整合法で本科進級を果たした者の実力か。
 美優は、誰の顔も見られずにいた。最上さんの顔も、早坂さんの顔も、酒井講師の顔も見られない。
 これは藍沢に限った話じゃないが。酒井講師は前置きして続ける。
「台本に書いてあったからセリフを言えばいいとか、そんな予定調和の芝居は芝居じゃない。芝居は受けて返しての繰り返しだ。芝居は所詮『嘘』だが、嘘が本当見えなければ芝居は成立しない。だれも感動させられない」
 酒井講師の言葉も胸に響きすぎて、自分の不甲斐なさから悔し涙があふれるのを堪えるのが精いっぱいだった。
 声優養成所の本科。
 ここはジュニア上りが立つにはあまりにも場違いな舞台。
 だけど、ここで折れたら夢は永遠の夢のまま――『しろねこさん』のいる場所には行けない。
 美優の目の前にはひどく大きな壁が立ちはだかっていた。