東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章 第二話・6

 収録は『テスト』で音響監督からの演出が入り、『ラストテスト』で演技指導が入る。その演出や演技指導を役者の中でかみ砕いて、ついに本番を迎える。ラストテストと本番の間に演技を整える時間などなく、ほんの短い休憩を挟んで、「本番は一通り通しで録音します」と告げた支倉音響監督の指示通りに進んでいく。
 美優たち養成所生も、プロの声優に交じって入れ代わり立ち代わり、マイク前に立って声を吹き込んでいった。
 キューランプという赤い照明がついている間は録音しているということ。
 モニターに映されるキャラの口元や動きに合わせて喋ること。
 極力、最初に声を吹き込んだマイクに入ること。
 自分のセリフの前に、ちゃんとマイク前に立つこと。
 声を吹き込んだら後の人のためにすぐに退くこと。
 収録のルールを先輩声優から教えてもらった美優たちは、何とか自分たちの声を吹き込むことができた。
 一通り収録が終わり、各々の椅子に着いた声優陣の耳に届いたのは、コントロールルームからの支倉音響監督の声。
『お疲れさまでした。特に東ボイの皆さんはレッスン生さんのサポートを含めてお疲れ様です』
 皆が小さく頭を下げる中、続ける支倉音響監督。
『えっとスミマセン。恒例の撮り直しですが。いつも通り数箇所ありますので、メモして用意していただけるとありがたいです。特に若手・新人さんとレッスン生さんは演技が棒ですので、もう少し頑張ってください』
 全員纏めてダメ出しを喰らってしまう。
 さよりさんや最上さん、十時さんみたいな養成所で優秀な人たちや、事務所所属という狭き門をくぐり抜けた精鋭である新人声優でさえも、ひっくるめて『下手』だと括られる世界。
 自分一人が下手だと思っていた美優でさえも、厳しい世界だと解る。
 ふと顔を上げれば、さよりさんが台本に目を落としながら悔しそうにぐっと唇を噛んでいた。
 最上さん、十時さんも同じように難しい表情。
 その奥。ガラスの向こうのコントロールルームでは、支倉音響監督が手元の台本をめくりながら、撮り直し個所を流れるように提示していく。
 メインの声優さんや新人声優さん、さよりさん、最上さんと十時さんも撮り直しを指定されるのだから、当然――。
『――ジンがユウを人質に取ってから、ユウがジンの腕から離れて逃げるまで。全部まるっと撮り直します』
 と、ゆるく無機質な声に、美優の隣では森永響が項垂れながらも小さく頷いていた。
「……すみません……」
 美優は謝らずにはいられなかった。
 あたしがド下手で、みなさんにご迷惑をおかけして。
 森永響はチラと美優を見、「いいえ」と呟いた。
「ここでは下手なら下手といわれる。棒なら棒と言われる。ただそれだけですし、謝られることなどありません。撮り直し時にあの音響監督を唸らせればいいだけですから」
 その言葉を聞いて美優は、隣に座る男は冷徹で冷静。そして意外と野心家なのだと思った。
 リテイク収録は通しではなく細切れで収録していき、音響監督が「今の、いただきます」の声があってようやくOKテイクとなる。そのため、アニメーション収録の拘束時間は4時間とも5時間ともなる。
 長時間拘束のため売れっ子声優ともなれば、自分のテイクがすべて終わった後に別の仕事が入っていると、現場を早く抜けることもあるらしいが、本日の収録では今のところ誰も抜けていない。
 アイドル声優でもある、主人公カイミ役・相模千咲さんや、チームのムードメーカーのアイサ役・有城真美奈さんも残っているし、売れっ子男性声優の、適役・花角紀孝さんや仁科明佳さんも椅子に掛けて新人声優との掛け合いに向けて準備している。
 この現場でナンバーワン声優の星野さんに至っては、ただ黙って後輩たちや他社声優の演技をじっと見つめていた。彼の見つめる先にいたのは、さよりさんと田島さん。
 二人は本番でそれぞれが使ったマイク前に立ち、ラフ画像を繋げた映像を見ながらそれぞれヨリとカスミを演じていた。
 赤く灯ってキューランプが消え、天から支倉音響監督の声がする。
『――はい、今のいただきました』
 無機質な声に、さよりさんと田島さんが「ありがとうございました」と礼を言って各々の席についた。
 ガラス越しの支倉音響監督は小さく会釈し。
『次。ジンがユウを人質にするシーンいきます』
 と、流れるようにアナウンスをする。
 担当声優が続々と立ち上がるなか、美優もいそいそと立ち上がってマイク前についた。
「ユウからだよね。がんばろうね!」
 クウウの妹・コハネ役の御門さんが美優の背に手を当ててにっこりと笑む。
「はいっ」
 返事をしてみたものの、美優の内心は焦りと不安でいっぱいだった。
 脳裏をよぎるのは、先日のレッスンでの出来事。
 オフィーリアを交代させられ、一人惨めに立ち尽くしていたあの時間。
 疑惑の謎進級。裏特待。ジュニア上がり。
 言われたこと、言われないことがぐるぐると頭を駆け巡り、体にぐっと力が入る。
 背後に感じるのは、オーディションを勝ち抜いたり現場に呼ばれた精鋭の声優陣の視線。
 コントロールルームからも、数多の視線が美優を貫いているようで。
 疑惑の収録見学だなんて言われないように、しっかりやらなきゃ……!
『では、映像流します』
 支倉音響監督の声が聞こえると、モニターのキャラクターが動き出す。声を吹き込む少し前のシーンだ。
『用意……』
 モニター横のキューランプが赤く灯り、録音が始まる。
 モニターの中ではジンに捕まったユウが口を大きく開ける手前。
 今だ。
「きゃぁぁぁぁ!」
「ユウっ」
 美優が叫ぶと、さよりさんの叫びと同時にヨリが振り返り、ユウに手を伸ばした。
「だめ、ヨリさん!」
 真ん中のマイクでは、カイミ役の相模千咲さんが叫ぶ。
 モニター内ではユウを助け出さんと駆けだそうとするヨリをカイミが制止している。戦闘を得意とする人狼族とはいえ、闇の四天王は到底敵う相手ではない。
 ジンが、抱えているユウの顔の真横で折り畳みナイフを展開させた。
 音はしない。サウンドエフェクト音はあとで加えるからだ。
 きらりと光るナイフの切先に怯えたユウに、美優はヒッと息を呑む音を乗せる。
 息を呑むコハネに合わせて、御門さんもヒッと息を引くと、
「どういうつもりだ、ユウを放せ!」
 大切な妹分を人質に取られ、人狼族のクウウがジンに対して牙をむき出しにした。
 ジンがギリギリと歯を軋まると、森永響も歯を喰いしばって荒い息を漏らし。
「……このガキがどうなってのいいのか!! あぁ!?」
 凄むような森永響の声には、ジンの余裕のなさもくっきりと乗る。
「……いいんだぜ、ここでこいつをぶっ殺したって。聞いたぞ、このガキが最後の人狼……なんだってな!」
 森永響の台詞の間、怯えたような息遣いをアドリブで入れて。
「こいつを殺せば、人狼族は滅びる……滅びの道を進む一族よ! その絶望の前に、まず悲劇を見せてやるぜ!!」
 ジンの凶行に、モニターには怒りに震えるクウウが、今、狼へと変化を遂げる。
 彼にとってユウは妹のような存在であり、人狼族の宝。
「ユウを、離せぇぇ!」
 鋭い牙を剥き出しに、クウウがジンに飛びかかる。
「っ!」
 怯むジンの腕が一瞬緩んだその隙にユウは大きく口を開けたので、美優は口を開けて大きく息を吸って、ユウを締めあげていた腕に噛みつく演技をする。
 グゥゥ。とも、ガウゥ。とも取れる音が美優の喉から漏れた。
「いっ……!!」
 森永響が痛みに呻いた後。
「このクソガキ!!」
 モニター内では、腕を噛みつかれたジンが腕を大きく振り上げて、ユウを叩き落とした。
「っ!」
 美優は、草地に転げそのまま駆け出すユウに声を乗せて一瞬、キューランプの赤い光がはっと消えた。
『ごめん、ちょっとジン、余裕ないのは解るんだけど息みすぎ』
 支倉音響監督のツッコみのようなダメ出しに、スタジオ内に笑いが生まれる。
『もうちょっと抑えながら余裕のなさを出してみてよ。ここジンの見せ場なんだからさー』
「……はい……」
 笑われながら森永響がぶっきらぼうに返事をしたので、支倉音響監督は続けた。
『ヨリはよかったよ。クウウもカイミも大丈夫……』
 語尾が伸び、ふと顔を上げた支倉音響監督と目が合った。
『ここ、ジンの見せ場でもあるしクウウの見せ場でもあるけど……ユウ、モブではあるけど君の見せ場でもあるんだよ』
 あたしのせいで、このシーンはもう一度録り直し。
 美優は支倉音響監督から目を逸らしながら、
「すみません」
 と謝った。
 だが謝罪空しく、支倉音響監督は美優に問う。
『キミ、今どんな状況なの?』
「……すみません……」
『いや謝罪じゃなくて状況聞かせて……? ユウは今どんな状況?』
 問われ、真っ白になりそうな脳内をフルに働かせ、必死に言葉をひねり出す。
「……あの……敵に捕まって、怖くて……」
『怖いんだよね? じゃぁ、その感じ出してよ』
 美優が返事をする前に支倉音響監督は、
『じゃぁテイク2行きます』
 と指示を出した。
「どんまい」
 巻き戻されるモニターの映像と、声優たちの台本のページに申し訳なさで俯く美優に、一緒のマイクを使っている御門さんが声を掛けてくれた。
「……はい」
 美優も顔を上げて台本のページを戻す。けど、ダメ出しをもらってしまったダメージは、ことのほか大きく美優の心を蝕んでいた。
 何度テイクを繰り返しても、ユウの気持ちが美優に乗らない。
 怖い、こわい、こわい。
 悪者に捕まって怖い。
 顔の横で開いたナイフも、乱暴な言葉も、大きな声も怖い。
 自分はここで殺されてしまうかもしれない。
 ユウの気持ちをなぞればなぞるほど、自分がユウを超えていかない。
 この程度の叫びで、この程度の息遣いで、モニターに映るあの子の口に声を合わせるのが精いっぱいで。
『ユウ、行動の根拠を考えてやってくれる?』
『怖いんだよね? 今の君の気持ちはいらないんだよ』p 『本当に怖いと思ってやってる?』
 支倉音響監督のダメ出しが続く。
 森永響はとっくにダメ出しを自分のものとして昇華し、OKを得たというのに。
 ダメ出しをもらうたびに緊張していく体は、いつしか自分の思うように動かなくなっていった。
『はい、最初から行きます』
 支倉音響監督の声が聞こえると、モニターのキャラクターが動き出す。声を吹き込む少し前のシーン。
 もう何度見ただろう。
 美優は音が立たないようにつばを飲み込んだ。
『用意……』
 モニター横のキューランプが赤く灯り、録音が始まる。
 モニターの中ではジンに捕まったユウが口を大きく開ける手前。
 今だ。
「……ぁぁぁぁっ……!」
 甲高く叫んだはずなのに、出てきた声はカラスの鳴き声のようなガラガラでかすれた声だった。
 どうしようと顔を上げた刹那、パッとキューランプが消えて支倉音響監督の声が降ってくる。
『ん、どうした。ユウ、声乗ってないよ』
「……すみませ……」
 咳払いを幾度となく繰り返すが、喉の違和感は取れない。それどころか、どんどん喉が詰まっていくような気がして、美優は思わず喉をぎゅっと押し込むその手を、急に掴まれた。
 隣のマイクに立っていた森永響だ。
「それ、余計に喉やりますよ」
 静かに言い放たれた言葉に、プロ意識の欠如を指摘されたように感じて、美優は思わず森永響を睨んでしまった。
 八つ当たりだってわかってる。
 けど。
 この人があたしを選ばなければ、こんな大舞台で恥をかくこともなかったんだ。
 睨んだのは一瞬。
 後はただただ惨めで情けなくて、俯くしかやりようがなかった。
 対して。
 森永響は表情一つ変えずに、掴んでいた美優の手をするりと放す。
 いつものように嘲笑ったり、睨み返してくれた方が、気が楽なのに……。
 と、スタジオのスピーカーからため息が聞こえた。
 支倉音響監督だ。
『……ちょっとこれじゃ収録できないわ。藍沢さんさ、ちょっと外に自販機あるから、そこで水分摂りながらユウの気持ちとか考えてきて』
「……はい……」
 名指しされた美優は返事をすると、静かにスタジオの扉へと歩を進める。
 さよりさんがマイクから一歩離れ、最上さんが心配そうに席を立ち、十時さんも美優に声を掛けようとしたけど。
『ここのシーンはちょっと保留します。次、オンとバルが一行を送り出すところ録ります』
 収録は止まらない。
 仲間たちを心配させまいと美優はへらっと笑んで、スタジオの外へとつながる二重扉を開けてロビーへと出た。
 へらっと笑んだ顔は、扉を閉めると同時に真顔へと戻っていく。  なんであたしは上手くできないんだろう。
 外の自販機へと向かう美優の足取りは重かった。
 そして、やっとの思いで外に出て自販機の前にたどり着いたというのに、肝心の財布はスタジオの椅子の下のカバンの中で。
 美優は自販機の隣に設置されたベンチに、倒れ込むようにどさりと座りこんだ。