東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章・エピローグ
帰宅後。夕食と入浴を終えた美優は自室に戻るとベッドに腰を下ろし、トートバッグから水色の本を取り出した。
再来週の月曜日に見学に行く収録のオンエア台本だ。
森永響に名前を呼ばれたレッスン室でも、高崎マネージャーからこの本を手渡された事務所内でも自覚がわかなかったのに、こうしてオンエア台本を手にして改めて実感する。
選ばれたんだ。
もっと喋る技術も話す技術もうまく優秀な人たちはいっぱいいた。本当に自分がスタジオ収録見学に行くひとりに選ばれたんだ。
うれしさのあまり台本をぎゅっと腕に抱きしめる。
だけど、この選抜を良しとしていない人たちも確かにいた。
確かに、異例の発表リテイクでスタジオ見学の選抜に疑問を抱くなという方が無理な話だ。
自分がもし逆の立場だったら……。
沈みそうな気持ちを何とか立て直す。
その時、スマートフォンが小さく鳴った。
通話アプリにメッセージが入ったのだ。
台本を抱きしめながら画面をのぞき込むと、さよりさんからメッセージが入っていた。駅での別れ際に、スタジオ選抜組4人で連絡先を交換したのだ。
『今日はお疲れ様。いろいろあったけど、来週も頑張りましょうね』
美優はすぐさま返信を打つ。
『お疲れさま。ありがとう』
文字を打ち込み、送信ボタンをタップして改めて思う。
スタジオ見学に選抜されていなかったら、たぶんさよりさんともこうして連絡先も交換できなかっただろう。
この運命の巡りあわせはありがたいな、と改めて感じながら腕に抱いていた台本を恭しく開いた。
水色の表紙の中は真っ白な紙で、一ページ目には役名とキャストの一覧が印刷されている。
主人公役を、最近目覚ましい活躍を遂げている若手女性声優が務め、その脇をベテラン声優やアイドル声優など、多彩なキャストで固めている。対するラスボス役はこの業界で知らない人はまずいないであろう『超』が付くほどの人気声優が務め、配下には中堅から若手の男性声優が担当している。
この人たちの収録を、この目で見ることができるなんて。
夢みたい。
いや。
夢じゃない。
プロの世界を垣間見れるなんて……!
美優はもう一枚ページをめくってみた。向かって右側のページには主要スタッフの一覧がずらりと載り、左側は白紙。ページをもう一枚めくると現れたのは、四角い枠で囲まれた文字の羅列だった。
一番上の枠には数字、その下はキャラクターの行動だけを描いたト書きが記され、ひとマス空いてキャラクターの名前とセリフらしき文章が掲載されている。これが十数ページにも及び記されていた。
パラパラとめくっていた美優だったが、ふと手が止まる。
『ジン 「俺達には後がないんだ……。どうしたら……どうしたら生き延びられる……!」』
ジンとは、森永響が担当している役名だ。
敵配下の中において一番の若手で無鉄砲。残虐性も人一倍高い。確かこの回で、とある一族を全滅させる。
あのひょろっとした皮肉屋が、真逆の役を演じられる。
全く別人の人生を歩むことができる。
これも声優の、いや役者の醍醐味だ。
そういえば。
美優はベッドから椅子に移ると、デスクにおいてあるパソコンでインターネットブラウザを開いた。そして、検索窓に『東京ボイスアクターズ 森永響』と打ち込んでエンターキーを押せば、検索結果の一番上に探したかったページを確認する。
森永響 Hibiku Morinaga - 東京ボイスアクターズ
その青文字をクリックすれば、事務所でもらった名刺と同じ童顔の男性がこちらに微笑んででいた。
氏名:森永響(もりなが・ひびく)
誕生日:X月X日
出身地:東京都
趣味:読書、映画鑑賞、コーヒー、カフェ巡り
特技:剣道
資格:普通運転免許(マニュアル)
芸歴:東京ボイスアクターズスクール
基本プロフィールとボイスサンプルの下の欄は出演作品の一覧が乗っているが、アニメの仕事と言えば『生徒A』とか『男性B』とか『兵士C』とか。その数はざっと10はあるか。中には作品名のみのものもある。
「新人期間抜けたって言ってたけど……」
おそらく他にも仕事は請け負っているのだろうけど、これだけが実績として載っているなら、これでよくジュニア期間に契約解除にならずランクまでいったなというレベルだ。
ジュニアコース時代に伊坂先生は、進級審査の前にこんなことを言っていた。
声優養成所から声優事務所に所属できる確率も少なければ、事務所に所属してコンスタントに役にありつける確率もまた然り。本当に夢を追うと決めた者だけ、夢破れても絶対に後悔しないと決めた者だけ基礎科入所審査を受けなさい。と。
現に事務所サイトのインフォメーション欄を見ると、三月末に声優数人が事務所を退所している。ほぼ、名前も顔も知らない声優だ。
当たり役に恵まれなかったものやマネジメントするに値しないと判断された新人は、ランク制度に移行する前に事務所から退所し、声優というスターダムロードからふるい落とされ、声優と名乗れるだけの仕事もできずに廃業する。
そんなシビアな世界。
三月末に退所した声優と入れ替わって四月に新人として数名が所属したと記載もされているが、この新人たちも三年後には半分、いや、三分の一も所属一覧には残っていないだろう。
身につまされる。
自分だって今は夢を追っている身分だけど、本当に声優になれるかなんてわからない。夢は夢のまま終わるのかもしれないし、費やした時間もお金も全部無駄になるかもしれない。
だけど、信じている。
頑張れば夢は絶対叶うんだって。
あの人――『しろねこさん』だって、こうして夢を叶えたんだって。
辞めた人もそう信じて養成所で勉強をしたに違いないし、自分自身も問題は山積みだ。p
けど、スタート地点で未来を憂うことはない。
森永響も『しろねこさん』も頑張って頑張ってがむしゃらに進んで行った道だ。森永響は確かに嫌な奴かもしれない。けど、美優が目指す道の先駆者であることに変わりはない。
それだけで敬意に値する。
自分に出来ること。
それは喫緊の課題『ハムレット』を熟し、『スタジオ収録見学』に挑む。
今は目の前の山を登ろう。
あの人も事務所の掲示板に張り出されたあの紙を初めて見て、思ったに違いない。
『テレビアニメ『ZERO PLUS』 出演決定
田島裕子:カスミ 役
田神篤志:ギンガ 役
星野優介:ZERO 役
小倉和彦:クロノ 役
森永 響:ジン 役』
自分はまだスタート地点だ。
がんばろう。
と。
自分はまだスタート地点だ。
がんばろう。
そう思った日から何日も何十日も過ぎて、箸にも棒にもかからない日々に心がどんどん腐っていく。
受けたオーディションは軒並み落選。
そんな中、同期が次々と活躍している姿を見るのは正直辛い。
何故自分は選ばれない?
技術か、感情か、それともほかの何かか。
嫉妬心と焦燥感。あとよくわからない色んな感情が押し寄せる。
次につながらない日々はまるで明けない夜にも出口のないトンネルにも思えて。
部屋の電気もつけないままベッド脇に荷物を放って、森永はそのままベッドに倒れ込んだ。
目を閉じて浮かぶのは、養成所生の夢と希望に満ち溢れた瞳。
あの仕事を引き受ければ、初心に戻れるとさえ思った。養成所生と関われば初心を取り戻せると思った。
だけど、あの輝きに呑まれて自分は消えてしまうんじゃないかとさえ思った。
いっそ消えれば楽になれるのか?
後悔しないのか?
自問自答。
いや、まだ自分は戦える。
ここで終わるような情熱じゃなかったはずだ。
だけど、自尊心が持たない。
「……あぁ、誰かに選ばれたい」
誰でもいいからキミしかいないって言って欲しい。
無意識に呟いた言葉は、外から漏れ来る光の中にとけて消えた。
こんなところでふてて至って何にもならない。動かなければ……。
ベッド脇に抛った鞄を開けて中を探ると、探していたものはすぐに見つかった。それを手繰り寄せて取り出して。
思い出すのは、初めて手にするであろう台本を抱きしめていたあの子の顔。
「……」
自分もあんな希望に満ちた顔をして、初めての台本を受け取ったのかな。
初めての宣材写真撮影、初めてのボイスサンプル録音、初めてのスタジオ……。
どんな気持ちで臨んでいたのかなんて、もう昔のことのようで、よく思い出せなかった。