東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章・11

 やましいことなど何もなかったけれど、とにかく降りくる火の粉は払わなければならない。
 さよりさんと足早に外に出た美優は、3階と4階の踊り場で待っていた最上さんと十時さんと合流をし、足早に事務所のフロアへと駆け上がる。
 ふと辺りを見ると、もうあたりはすっかり夕焼けの色で、灰色の建物も桜の色もオレンジ色に染まっていた。
 さよりさんと美優にとっては本日二度目の事務所フロアだったが、やはりこの場所にいると自覚するだけで心臓が早鐘を打つ。
 この場所に再び足を運べるだなんて、誰が想像しただろう。
 まさかまた、このロビーの床を歩けるとは。
 ロビーを暖色系の優しい照明が照らす。その右奥にガラス扉があって、最初に銀色の取っ手に手をかけたのは最上さんだった。>
 扉をノックをしてゆっくり開くと、白色蛍光灯の明るさに目が覚める。
「おはようございます、本科土曜14時クラス、最上葉遠です」
 この業界では、朝でも昼でも夕方でも夜でも、はじまりの挨拶は『おはようございます』だ。
「同クラス、十時昴です。おはようございます」
 丁寧にあいさつをした最上さんと十時さんに倣い、
「おはようございます。同じく北原さよりです」
「おはようございます。同じく藍沢美優です」
 さよりさんが先にきれいに挨拶をし、美優も丁寧にお辞儀をした。
 養成所生が事務所に赴くことは極めて稀なことである。養成所所属中、全くこの場に足を踏み入れることができない者もいる中、一日に二度も足を踏みいれた養成所生は数えるほどしかいないだろう。
 故に、事務所に顔を出すということは自分を売り込むチャンスでもある。
 はっきりと名乗ること、きれいにお辞儀をすることは名前を覚えてもらう第一歩。
 事務所内は人もまばらで両手で数えるほどの人しかいない。
 高崎マネージャーは少し離れた机から四人を手招く。
「皆さん、こちらにお願いします。今配布物を持ってきますね」
 そう言うと、隣にいる森永響を置いて部屋の奥の部屋へと入っていった。
 とりあえず森永響の元へ行けば間違いないのだろう。最上さんを先頭に美優も殿について事務所内を進んでいくが、滅多に踏み入れることのない事務所内に興味津々なのは否めない。最上さんと十時さんは平然を装いつつもあたりを見渡している。ご多分にもれず美優も、これで最後かもしれない事務所内を見回していた。
 デスク担当のスタッフは今も電話を受けてパソコンで何かを確認していて、別の場所では他のクラスの講師が18時から始まるレッスンの準備をしている。壁に目を向けると張り紙がびっしりと掲示されていて、すべてが所属声優の出演決定を知らせるもの。そういえば、廊下にもアニメーションや洋画のポスターが貼ってあったが、あれらは全て、所属声優の出演作品のものだ。
 あまりキョロキョロし過ぎると所属声優様に何かチクチク言われるかも。
 美優は森永響を伺ったが、森永響は美優たち養成所生から目をそらすようにカーペット敷きの床に視線を落としていた。
 色素の薄い瞳はうつむいていても明るさを失うことはない。
 蛍光灯に照らされたこの瞳はとてもきれいだったな。と思いだすのは、数時間前の自己PRレッスン。
 あの時の、あの表情は、あの言葉は、あのレモンティは、どういう意図だったのだろう。
 そして、何であたしを大事なスタジオ見学に選んだのだろう。
 美優の視線に気が付いた森永響がちらとこちらを見、美優の肩がぴくんとはねたその時。
「おはようございます!」
 明るい大きな声が室内に響き渡り、事務所にいる人間が皆が皆そちらを向いた。
 磨りガラスの扉を開けて入ってきたのは、わんぱく少年をそのまま大人にしたような明朗な雰囲気の男性。
 東京ボイスアクターズ所属声優の、小倉和彦さんだ。
 よく通る力強い声は熱血主人公向けだが、悪役やクールな役までこなす、今人気急上昇の若手声優。
「っ、おはようございます!」
 反射的に挨拶を返す美優たち養成所生。デスクや講師陣も次々挨拶を返す中、
「小倉さん、おはようございます」
 森永響は一番最後に挨拶を返した。
 絶賛大活躍中の声優のご登場に養成所生は背筋を正したというのに、余裕の挨拶はさすが同じ所属声優様。
 小倉さんは事務所スタッフや初対面のレッスン生の中に見知った顔を見、嬉しそうに手を上げた。
「お、ビッキーじゃねぇか」
 ビッキー。
 ビッキーって呼ばれてるのか……!
 美優がを始め、養成所生がビッキー――いや、森永響を伺うと、森永響は顔を顰めてあからさまに目を逸らす。どうやらその呼ばれ方をお気に召していないらしい。
 そんなことはお構いなしに小倉さんは豪快な足取りで森永響に近づくと、
「最近どう? やってる?」
 と肩をバシバシと叩いた。
 叩かれてふらふらする森永響は完全に押され気味の様子。
「ま、まぁ、ぼちぼちですけど……あの、養成所生の前で、その呼び方、やめてもらえます……?」
 やっぱり呼ばれ方はお気に召してなかったのか。
 まぁそうだろうな、このひと『ひびき』じゃなくて『ひびく』だもんな。
 呼ばれるとしたら、ビックーだな。でも、ビックーはさすがに変だよな。
 などと思う美優をよそに、森永響の思わぬトスによって小倉さんの興味は養成所生4人へと移った。
「お、養成所生?」
「はいっ」
 全員がそろって返事をした。
 緊張気味の養成所生たちを安心させるためだろう。小倉さんは一番振れやすかったのであろう最上さんの頭をぽんぽんとなで、
「だいじょーぶ、取って食いはしないから」
 と、豪快に笑んでみせたが、次の瞬間には首をかしげて続ける。
「でもどうして養成所生がこんなにたくさん……あぁ! 俺わかっちゃった!」
 はっと森永響と目を合わせた。
「ビッキー。これ、本科恒例のアレ?」
「はい。例のスタジオ見学です」
「……ってことは、ビッキーの引率?」
「えぇ、まぁ」
「ってことは、『ゼロプラ』?」
「そうです」
「そっかそっかー。スタジオ見学ねぇー。しっかし、あのビッキーが本科研修の引率ねぇ。ビッキーん時の引率、俺がしたんだよなぁ。俺も新人抜けきったばかりでねー、あぁ懐かしい!」
 一頻りなつかしさに浸る小倉は、再びレッスン生に向かってにかっと笑顔を見せた。
「お前らが現場を見る機会なんてめったにないからな。学べるものは全部学べよ! あと、現場には俺もいるから、がっつり頼ってきてくれ!」
「はいっ」
 今をときめく人気声優の激励に、美優たち養成所生たちの返事にも気合が入る。と同時に高崎マネージャーが本やプリントを手に戻ってきた。
「あ、小倉さん、おはようございます。ちょうどよかった。こちら、来週の台本とDVDです」
「ん、さんきゅー」
 高崎マネージャーの差し出した台本と不織布ケースに入ったDVDを受け取った小倉さんは、台本とDVDを斜め掛けにしていた鞄に入れる。
「それと、収録にお邪魔します、養成所生です」
「うん、今挨拶してたとこ。お前ら、当日スタジオで待ってるな! ビッキーも頑張れよ! じゃー、お疲れさまでした!」
 と、豪快に笑んで足早に事務所から出て行かれる。
 森永響と養成所生は「お疲れさまでした」と、小倉を見送ったが、
「……小倉さん、気さくなイイ人。萌える……」
 思わず心の声が漏れ出てしまった美優は、はっと口を覆った。
「す、すみません……」
 恥ずかしさで顔が一気に熱くなった。
 美優の素直さにさよりと最上さんが笑み、十時さんが少しびっくりした表情で美優を見ている。
「ん、藍沢さん、小倉さんのファンなの?」
 高崎マネージャーに尋ねられて、美優はさらに頬を染める。
「はい。小倉さんのお声って、明るくてみんなを元気にしてくれますよね。それに、温かみのあるお人柄も素敵で。……前線で活躍されてる方ってキラキラしてて眩しいなって……」
 と呟いたところで、微かな、だけど主張の激しい咳払いが響く。
 森永響だ。
 ちらと見ると、不機嫌そうに変な方向を見ている。
 森永響はキラキラもしてないし眩しくないしって聞こえたのかもしれない。
 いや、これは、そう取ったわ。
 美優は気まずさから口を覆っていた手をそっと降ろし、森永響とは逆の床に目を落とした。
 二人の様子にくすくすと笑んだ高崎マネージャーは、では、と場の空気を変える。
「本題に入りますね」
 その号令に背筋をただした養成所生たち。
 高崎マネージャーは4人の表情を確認し、話し始める。
「皆さんに行っていただくのはアニメーションの収録スタジオ見学です。東京ボイスアクターズスクール本科土曜14時クラスの代表ですので、自覚をもって勉強してきてください」
「はい」
 返事を返した養成所生たちに高崎マネージャーが手渡したのは、色紙表紙の本。
 大きさはA4くらいか。
 先ほど、小倉さんに手渡したものと同じ本だ。
「こちらは先方のご厚意でご用意いただいた、皆さんが見学に行く現場のオンエア台本です。収録前までに目を通しておいてください。こちらの内容はネタバレ禁止、本も門外不出でお願いします」
 手渡された本は水色地に黒インクで『ZERO PLUS』とロゴが入り、その下にキャラクターのイラスト。ロゴとイラストに挟まれて話数とサブタイトルが入っていた。
 少女漫画誌で連載されているその作品は、少女が冒険の旅に出るというストーリーのファンタジー。原作のファンである美優は、この作品がアニメ化されると聞き心躍らせたことを思い出す。
 憧れの作品の収録現場に見学しに行けるなんて……。
 初めて触れるオンエア台本に、美優の手は微かに震えた。
「で、基礎科と本科ではマイク前に立ってのレッスンは行っていないので、台本の読み方のプリントを入れてあります。そちらも後で目を通しておいてください。当日は、私も現場に行く予定ですが、駅からは森永が引率します」
 高崎マネージャーの説明にレッスン生たちの注目が一気に森永響に移る。
 森永響は小さく咳払いして4人に向き直り、パーカーからメモ帳とペンを取り出した。
「収録は再来週月曜、集合は上野駅の……みなさんどこから来ます?」
 と、森永響はまず最上さんを見た。
「えっと、中央線経由なので、山手線です」
「京浜東北です」
「京王線経由で山手線の予定です」
「常磐線です」
 最上さんから十時さん、さよりさんと続いて美優が応えると、森永響は一瞬考えて。
「……じゃぁ、山手と京浜東北にはちょっと遠くなってしまって申し訳ないですが、中央改札前の『翼の像』付近で。時間は15時。大丈夫でしょうか? 学校とか大学、バイトや何かの都合はつけられますか?」
「この日はオフなので、大丈夫です。大学もないので」
 最上さんが鞄から取り出した手帳を確認しながら言うと、
「俺もこの時間は講義ないので、大丈夫っす」
 と十時も手帳を眺めている。
「私は学校がありますけど、この時間なら間に合うかと」
 さよりさんが返事を返したので、美優も、
「頑張れば、何とか大丈夫です」
 と返事をした。
「じゃぁ、15時に上野駅中央改札、『翼の像』付近で」
 森永響が告げると、美優たち養成所は各々の手帳にメモを取る。その様子を確認し、森永響は続けて説明をしていく。
「当日ですけど、演者と同じ心構えで来てほしいので、なるべく動いた時に音に出ない服装でお願いします。女性は今みたいにアクセサリーは無しで。今回のスタジオはカーペット敷きなので靴は問いません。持ち物はその台本と、持ってる人はアクセント辞典。飲み物はスタジオ外の自販機で購入できますし、間食はスタジオロビーにケータリング形式でおいてあるので用意は不要かと。事前にお知らせする項目は以上です。何か質問等ありますか?」
 森永響の問いに全員が大丈夫です、ありませんと応えた。
「そうですか」
 森永響は呟くとジーンズの後ろポケットから財布を取り出した。そして中からカードを4枚取り出す。
「これ、俺の名刺です。万が一のために連絡先交換してもらっても大丈夫ですか?」
 森永響は名刺をそれぞれ4人に配り終えると、財布を元のポケットに戻す。そして逆のポケットからスマートフォンを取り出した。  美優は初めてもらう声優の名刺に目を落とす。
 名刺は白地に黒字で氏名と肩書、所属事務所と事務所の所在地と電話番号が記載されているが、その下の携帯電話番号の末尾には、本人直通と記されている。この名刺自体はプライベート用なのだろう。宣材写真であろう画像も印刷されていて、まだあどけない顔つきの男が微笑んでいる。
「取り急ぎで申し訳ないんですけど、端から俺の携帯番号にワン切りしてもらっていいですか? 番号登録するんで」
 最上さん、十時さん、さよりさんが次々と番号を入力して森永響のスマートフォンを鳴らす中。森永響は名前を呼びながら淡々と連絡先を登録していく。
「最上さんって、下の名前、なんでしたっけ?」
「はおん、です。漢字は、最も上の葉っぱは遠い」
「漢字助かります。芸名みたいな名前ですね。十時さんは?」
「スバル。星の昴です」
「みんなカッコいい名前ですねぇ。北原さんは――」
「さよりです。ひらがなで」
「ひらがな、いいですよね柔らかくて」
 そんなやり取りを聞きながら、美優も先日買ってもらったばかりの真新しいスマートフォンに森永響の携帯番号を入力し、緑色の通話アイコンをタップした。
 ほどなくして森永響のスマートフォンが鳴ったので、美優は即座に赤いアイコンをタップして電話を切る。
 森永響はその番号を確認するや否や、ひとりごとのようにつぶやいた。
「……あいざわ、みゆう」
「色の藍にさんずいの沢、美しく優しいです」
「あ、大丈夫です」
「……スミマセン……」
 森永響につっけんどんに返されて、美優は反射的に謝ってしまった。
 だが、次の瞬間に湧き出るのはもやもやっとした気持ちだ。
 なんでみんなの名前は褒めたのに、あたしの名前はスルーした?
 っていうか、別に褒められたくもないけど。
 少しむすくれた表情の美優を尻目に、森永響は美優の携帯電話番号をアドレス帳に登録し終え、スマートフォンをポケットに戻した。
「では、当日の詳しいことは当日に都度、お教えします。では、お疲れさまでした」
 不愛想気味に話を締めた森永響。
 高崎マネージャーはそんな森永日を軽い肘鉄で窘めて、
「皆さんごめんなさいね、そっけない人で。では、当日はよろしくお願いいたします」
 と、その場を締めた。
 アニメーション収録スタジオ、演者と同じ心構え、同じ台本……。
 憧れていた世界へのパスポートをもらえたようで、台本をぎゅっと抱きしめた美優の心は、わくわくとドキドキが綯交ぜに満ちていた。
 この気持ちに名前を付けるなら、希望かもしれない。