東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・10

 休日ともあって、東京ボイスアクターズの事務所内に出勤している社員はまばらであった。スクールの講師陣、デスク担当が数人いるだけ。マネージャー職はほぼ、アニメや映画などの録音収録や多岐に渡るイベントに同行するなどして外出しているためだ。
 この時間帯であれば静本来、静かなオフィス。
 だが、この時ばかりは少し様子が違っていた。
「高崎さん、なぜです。なぜ、早坂じゃないんですか?」
「ですから酒井さん、選考についてはお答えしかねます」
 フロアの片隅。
 事務所入室からかれこれ10分。酒井講師と高崎の押し問答がは続いていた。
「ですが、あまりにも理不尽です。なぜ、早坂が落ちて藍沢なんかが……!」
「酒井先生。言葉は選んでください」
 彼らの議題は勿論、酒井講師が選出した女子レッスン生が選ばれずに、クラスで一番ど素人のパッツン姫カット――藍沢美優が選出されたことだ。
 酒井講師のはこの決定に大層不服な様子で、憤懣やるかたない気持ちを抑えきれずにヒートアップしている。
「北原と十時が選ばれたのは理解します。私も選びましたから。最上に関しても異論はありません。ですが、なぜ早坂や他の基礎科上がりを差し置いて藍沢なんですか? これでは元から選外である本科残留の受講生も納得しません!」
「落ち着いてください、酒井先生。受講生にも問い合わせ不可とした手前、申し訳ありませんが先生にも選考理由はお伝えできません」
 さすが事務所のスタッフ。高崎は淡々とコンプライアンス関係を徹底している。一貫して『お問い合わせは受けつけません』スタイルだ。
 森永は彼らを横目で見ながら、来週収録予定作品の台本と映像DVDを鞄にしまった。
 しかし、いつ助け船を出そうかとタイミングは窺っている。
 酒井講師は十年近く東京ボイスアクターズスクールで講師を務めているベテランであり、森永が養成所生であった頃から講師一覧に名を連ねていた。
 だけど彼に対しては養成所生時代からあまりいい噂を聞かない。
 お気に入りの受講生は何十分もかけてレッスンするものの、眼中にない受講生には数分と時間をかけないだとか、お気に入りは名前で呼ぶがそれ以外は名字で呼ぶとか、受講生が肌で感じるほどの依怙贔屓をやってのける。
 講師とて人間。合う合わないはあるし好き嫌いは仕方ないことであろう。
 だがそれが露骨であると問題がある。
 それにまだレッスン一回目だというのに、酒井講師がお気に入りにかける情熱は異様なものだ。
 養成所講師は声優志望者にレッスンを行うことが仕事である。だがそのほかにもう一つ、大事な仕事がある。
 それは、ダイヤモンドの原石を見つけること。
 酒井講師にとって、少なからず早坂というレッスン生はダイヤモンドの原石なのだろう。
 そのダイヤモンドの原石が輝くか輝かないかは本人の努力にかかっているが、原石石ころ問わず明らかな贔屓が見えてしまっては、問題なのである。
 それに、高崎が見つけたダイヤモンド原石を石ころだと言ってしまう傲慢さも問題だ。
 事務所内に残った数人のデスク担当のスタッフと、養成所基礎科と専科担当の講師が興味本位で騒ぎを見守っている。
「高崎さん、早坂を選びなおすまで、俺は譲りませんよ」
「だから、決定は揺るがないと言ってます」
 酒井講師の圧力にも負けない高崎は、単純にすごい。
 だけどいい加減うんざりし始めて、高崎の眉間にしわが寄っている。それに、もうそろそろあの4人が3階から上がってくるころだ。
 時間がない。
 森永は鞄からペットボトルを取り出すと、残りのレモンティを飲み干した。そして底が凹んだペットボトルをゴミ箱に投げ入れて、二人に歩み寄った。
「酒井先生、藍沢美優さんを最終的に選んだのは高崎マネージャーではありません。俺です」
 その言葉を耳にした酒井講師は、あからさまに顔を顰めた。
 は? とも、え? とも聞こえる声を上げた酒井講師。森永は絶句した酒井講師をさらに畳みかける。
「藍沢美優さん、声だけはよかったので。それは先生もお認めでしょう?」
「あ、あぁ……確かに声はな……」
 森永の問いに嫌々返事をした酒井講師。あのキラキラとした愛らしい声のことは認めているのだ。
 ならば何が気に入らないのか。外見か? 技術力か?
 だがそれは、今はどうでもいいことだった。
「だけど、所詮あの声だけですし、彼女は若いですからこの世界に夢を見ているだけでしょう。なので業界の現実を知るなら早い方がいいと思いまして」
 そう巧言しながら森永の脳裏に浮かぶのは、あの夢を語るキラキラした黒い瞳と紅潮した嬉しそうな笑顔。そして、ラブレターのようなスピーチ。
 ここにはいない彼女を罵りながらも心が痛むのは、自分に?をついている証だ。
 だが、酒井講師は諦めない。
「だったら、選ばれないという現実を突きつけた方が!」
「あの授業で十分突き付けられたと思いますよ。自分は本科のレベルに達していない。なぜ基礎科を飛び級してしまったのか。と」  畳みかけるように森永は続ける。
「酒井先生が次点でお選びになった早坂さん。彼女は本当に素晴らしい才能があります。愛嬌もありますし、声もいい。それに、僕の決定は彼女の情熱の火をさらに燃え上がらせたと思いますが、如何でしょう。僕的には、彼女にも他の受講生にもこれを機にさらに頑張ってもらいたいところです」
 お気に入りの早坂が持ち上げられてしまっては、さすがの酒井講師は口籠らせた。そしてモゴモゴと何か言いたそうにするが観念したのだろう。はぁっと乱暴に息をついた。
「……わかりました。今回はそれで良しとします。しかし次は早坂にもチャンスをやってくださいね。では、4人をよろしくお願いしますよ、森永さん」
 ではお先に。と、おそらく荷物を取りに行くのだろう。足早に事務所を後にした。
 その背中を見送った高崎が、ふぅっと明らか疲れ切ったため息を吐いた。
「……本科のスタジオ見学、一回だけなんだけどね……」
 次、早坂がチャンスをつかむとすれば、それは専科への進級審査時に行われる、事務所所属審査だけだ。
「……それにしても森永くん……、あんなこと言って……」
「あんなことって、何のことですか?」
「またすっとぼけ? まぁいいわ」
 で、と続ける高崎。
「森永くん、早坂さんの下の名前、覚えてる?」
 問われて頭の中を探してみるけど、出てこない。
 たしか最後が『み』だったような気はするが。
「……えみ、いや、るみ? ……なんでしたっけ?」
「藍沢さんの下の名前は覚えたのに?」
「……」
 森永は気まずさから高崎から目をそらしたが、ふと視界に飛び込んできた張り紙に思わず釘付けになった。

 テレビアニメ『ネメシスイーター』
 坂下晴矢:ラキア 役
 レギュラー出演決定

 自分と同時に所属した声優が、アニメのレギュラー出演を射止めた知らせだった。
 確か、昼過ぎには掲示されていなかったはず。
 高崎も森永の目線の先を見た。
「あ、あのオーディション、決まったのね」
「……俺も参加したんですけど……落ちましたね……」
 自嘲。それでも込みあげてくる悔しさと無力感は抑えきれない。
 アニメの配役はまず、主役を決め、準主役を固める。
 主役は制作サイドから指名されることもあれば、正々堂々とオーディションで決まることもある。その脇を固める準主役クラスは、主役と声質が似通ることがない声優が選ばれる。
 坂下と自分とでは声質が違う。
 だけどそんな上っ面な理由では到底納得ができない。
 ああ、自分の何が悪かったのか。
 自分のどこが届かなかったのか。
 演技か? 見た目か? それとも感性か?
「森永くん……大丈夫よ。また次があるわ」
 いつも通り高崎が励ましてくれるけど、それさえ空しい。
「……ですね」
 そう言葉を返すのがやっと。
 新人期間の三年が過ぎ、これからは『ランク』という給与形態下。名前を売って仕事を取っていかないと、この世界では生きてはいけない。
 だけど、名前すら売れない状況。
 同期所属の声優は坂下を始め次々とレギュラーを取って活躍の場を増やしているというのに、自分はいまだ準レギュラーや番組専属のモブ担当の番組レギュラーどまり。
 やっとつかんだ今の仕事もオールアップを目前に迎え、そのあとの仕事はまだ決まっていない。
 あまつさえ養成所生にも、レッスン生と間違えられる始末。
 その養成所生がもうすぐここに来るというのに。森永は自分の気持ちを立て直せずにカーペット敷きの床をじっと見つめていた。