東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・8

 高崎マネージャーの発言に室内がざわめいた。
 無理もない。今日は本科初日だ。
 美優でさえただの模擬オーディションであると思ったくらいなのに、まさか本当にオーディションが行われるとは誰も予想だにしていないこと。
 辺りを見渡せば半数のレッスン生が、驚愕と戸惑いの表情を隠せないでいた。
 美優の心中も穏やかではない。
 こんな進級早々に、クラス内で優劣が決してしまうのだ。
 さすがに自分が一番へたくそだと認識していても、他者からそれを突き付けられるのはさすがに堪える。
 だけどほぼ半数の生徒は平常心で聞いていた。
 なんでだろう。
 そう思う間もなくレッスン室内のざわめきは一瞬で落ち着き、それを確認して高崎マネージャーはその静寂に声を張る。
「このクラスからは、前年度基礎科・ジュニアコース・未入所の年齢25歳以下の方に限定し、酒井先生と私高崎、そして弊社声優森永が4名を選出いたしました。かといって、呼ばれた方が優れている、呼ばれなかった方、本科二年目、年齢が上の皆さんが夢を掴めないというわけではありません。まだ4月です。皆さん全員にチャンスがあります」
 と、前置きし、宣言した。
 平常心を保っていた半数のレッスン生は、いわば、本科二年目。昨年度もこの抜き打ちオーディションの洗礼を浴びていたレッスン生だったのか。
「今から名前を呼ぶ方々は、弊社森永引率の元、再来週月曜日、夕方から行われるアニメの収録スタジオの見学に行っていただきます」
 高崎マネージャーの言葉にレッスン室内が再度ざわつく。
 今の自分たちが与えられる一番身近で大きなチャンス到来であるからだ。
 勿論、美優の胸も躍る。
 収録って、スタジオって、お仕事の現場を見られるってことだよね……。
 すごい! 行ってみたい!
 だけど美優はわかっていた。
 温情リテイクでかろうじて発表できた自分の名前は、ほぼ呼ばれるわけがないと。
 しかし心のどこかで、何かの手違いでもいいから名を呼ばれたいと、願わずにはいられなかった。
「今から名前を呼ばれた方は、起立をお願いいたします」
 と高崎マネージャーが告げると、森永響が一歩前に出た。
「では一人目――」
 森永響の一声に、さっきまでざわついていた室内が一気に静まり返る。皆、自分の名が呼ばれることを心のどこかで期待しているのだろう。皆が祈るようにまっすぐ彼を見据えるが、それは美優も同じだった。
 かすかな可能性があるなら、かけたい。
 騒がしい静寂の中。森永響の目が、かの人を探すように左右に揺れたかと思ったら、ふと止まる。
 その人を捉えた。
「北原さより」
 しっかりはっきりとした発音で呼ばれた名前。
 呼ばれたその人物はすっと立ち上がって、堂々と胸を張った。
「はい、ありがとうございます」
 彼女が深々と頭を下げると、ぱちぱちと拍手が打たれた。
 同時に、微かに皆がはぁっと息を漏らす音がする。中にはこそこそと疑問の声も上がったが、彼女は名前を呼ばれると誰もが思っていたことだろう。
 それは、高崎マネージャーの隣に立った酒井講師の大きな頷きが物語っている。
「二人目」
 間髪入れずに森永響が声を張ると、また室内のざわめきが止まる。
 対象者は、また願う。
 今度こそ自分の名が呼ばれますようにと。
 だが、その時に名を呼ばれるのは、たった一人。
「十時昴」
「はい」
 名を呼ばれた十時さんは通る声ではっきりと返事を返し、すくっと立ち上がるとしっかりとお辞儀をした。
 また拍手が鳴る。
「三人目」
 次こそは。
 対象者の祈りは教室内の時間を止める気がした。
 しかし時間は等しく過ぎ、選ばれたものは名を呼ばれる。
「最上葉遠」
「はい」
 三番目に呼ばれた最上さんは立ち上がってにっこり笑むと深く頭を下げた。
 美優はペアを組んでいる最上さんが呼ばれたことが純粋にうれしくて、隣で立っている彼を拍手で称えながら誇らしく見上げた。
 だが、すぐに前を向く。
「最後、四人目」
 森永響の声が響いた。
 レッスン生は最後の望みをかける。
 多分、いや、絶対あたしの名前は呼ばれない。
 そう思っていた方が、呼ばれなかったときに追うダメージは少なくて済む。
 だけど、美優の鼓動は高鳴っていた。
 諦めているのに、この最後の最後に土壇場で形勢逆転を期待している。
 目の前でレッスン室内をぐるりと見渡している森永響の姿さえ、まともに見られない。
 早く誰かの名前が呼ばれればいい。
 それが自分の名前でありますように。
 しんと静まり返るレッスン室の永遠とも思えた時間は、森永響のかすかな溜息で動き出した。
「――――」
 誰もがその名に耳を疑った。
 え、うそ、なんで。と誰かが声を上げる。その誰かじゃなくても、その人物の名は絶対に呼ばれないと思っていた。現に酒井講師も目を大きく見開き驚きの表情で森永響の後姿を見ている。
 対して高崎マネージャーは、納得した風に頭を小刻みに振っていた。
 少ししてさよりさんがパッと笑顔になり、十時さんが横目でかの人をちらと見つめ、最上さんがその人に立つように囁く中。そいつが立ち上がりもせず呆けているので森永響は苛々と咳払いをし、今一度その名を呼ぶ。
「藍沢美優!」
「あ、は、はいぃっ! すみません……!」
 わたわたと立ち上がりながら返した返事は上ずって、ただでさえ高い声がさらに高くなる。そしてなんとも落ち着きのないお辞儀をする。
 まだ心が追い付かない。呼ばれたから立って頭を下げたのだ。
 教室のあちこちから呟かれるかすかな声も美優の耳には聞こえない。
 それほどに、名を呼ばれたことが信じられず、実感のないものだった。
 高崎マネージャーは4人と目を合わせると高らかに声を張る。
「以上4名をこのクラスの代表者として選抜いたしました。北原さん、十時さん、最上さん、藍沢さんはレッスン終了後に事務所におこしください。尚」
 高崎マネージャーが語気を強めると、挙手をしかけた数人のレッスン生がびくっと手を引っ込める。
 美優が呼ばれたことに納得できないと異議を申し立てようとしたのだ。
 彼らの手が下がったことを見届けて、高崎マネージャーは真剣な表情で続ける。
「選抜理由については特段の理由のない限り開示は致しませんのでご了承ください」
 だがその表情も一瞬。いつものにこやかな笑みを浮かべた。そしてふと、壁にかけられた時計を見上げた。
 時刻は16時50分。もうすぐこのクラスのレッスン終了時間だ。
「以上です。本日は見学させていただきありがとうございました」
 高崎マネージャーが頭をさげると、森永響も小さく頭を下げ、
「今日は皆さんのレッスンを拝見して初心を取り戻せた気がいたします。ありがとうございました。今後のレッスンもがんばってください」
 と、爽やかに笑んだのだった。
 この選抜に納得がいかないのはレッスン生だけではない。酒井講師もその一人だったようで何かもごもごと発していたが、あれよあれよという間に二人が挨拶をしてしまったので、レッスンを締めるほかなくなってしまった。
「えっと、高崎マネージャー、森永さん、本日はありがとうございました」
 と森永響と高崎マネージャーに会釈し、今度はレッスン生に向き直る。
「本日はここまでとする」
 すると、座っていたレッスン生も起立し、
「ありがとうございました」
 と、礼をした。
「では失礼いたします。お疲れさまでした」
 そう言ってレッスン室から出ていく高崎マネージャーと森永響の後を追うように酒井講師がレッスン室から飛び出していく。
 普段だったら講師はゆっくり身支度をして最後に退室するため、その光景は異様に映る。
 何をそんなに慌てているのだろうと、ざわめくレッスン室で真っ先に美優に声をかけたのはさよりさんだった。
 駆け寄り、美優の手をぎゅっと握ったさよりさんは満面の笑み。
「美優さん、おめでとう!」
「あ、ありがと……」
 さよりさんに手を握られて祝福されているというのに、美優はいたって普通に返事を返した。まだ選ばれたという現実感もなく、喜びもできなければ不安におののくこともできずにいたからだ。
「北原さんもおめでとう」
 美優の隣から、最上さんがさよりさんに声をかけた。 「ありがとうございます。最上さんもおめでとうございます!」
 屈託のない笑顔を見せるさよりさん。
 対して美優はまだ、他人事のように二人の会話を聞いていた。
「藍沢さん」
「あ、はい!」
 最上さんに声をかけられ、返事を返す。
「どうしたの?」
「さっきから心ここに在らずって感じよ?」
 さよりさんも美優の手を握ったまま、伺ってくる。
「……うん、まだ実感がわかなくて……」
 うそを言っても仕方がない。正直に返事を返す。
 名前を呼ばれたいとは願ったが、名前を呼ばれるという自信はなかった。本科課題ということで、選考から除外された人もいたが、それでも自分より完璧な自己PRをした人はたくさんいた。
 なのに、なんでリテイク一回の自分が。
 さよりさんは言い分をうんうんと聴いていていたが、あっけらかんと美優に言う。
「でも選ばれたのは紛れもない事実よ?」
「僕は藍沢さんは呼ばれると思ったけーどーねー」
 最上さんに至っては、少しおちゃらけたように言って美優の背をポンポンと叩く。丸まり気味の美優の背がすっと伸びた。  さよりさんと最上さんが現実へと連れ出してくれた。美優はそう思った。
「……二人とも、ありがとう」
「そうと理解したなら話は早いわ。早く着替えて事務所に向かいましょ。最上さんまた後で」
「うん。僕は先に階段のところで待ってるよ」
 さよりと最上は言葉を交わす。
 美優はさよりさんに引っ張られるように、更衣室を兼ねたロッカー裏へと歩を進めていった。
 レッスン生は男女に分かれて着替えを始める。
 男子はレッスン室で。女子はロッカー裏で。
 レッスン室――男子の方はそうでもないのだろう。昨年度も養成所に所属していた人間が選抜されたのだから。和気あいあいとした会話が弾み、その雰囲気がロッカー裏にも伝わってくる。
 一方、ロッカー裏の女子の着替えスペースはギスギスとした空気が流れていた。
「なんで今日入ってきたばっかの人とジュニア上りが選ばれるの?」
 袋小路の奥の方で着替えをする美優とさよりさんの耳に、ふんわりとした声色が聞こえてきた。
 美優がちらと伺うと、ロッカー裏の出口でその人物はふわふわのツインテールをぷりぷりと揺らしていた。
 たしか、早坂麗実と名乗った少女だ。
「ほんと、やる気なくすー」
「あの人たち、何なんだろうね。特待か何かなのかな?」
 同調しているのは彼女と年の近いレッスン生。横目で睨まれた気がして、美優は思わず目をそらした。
 特待――特待生制度のことなのだろう。
 入所審査での成績優秀者は入所金や授業料を免除されるという、養成所生の間で実しやかにささやかれている制度だ。
 黙って着替えながら美優も、さよりさんは特待生だと思っていた。まだ高校生だし、堂々としているし、可愛いし、声もきれい。おまけに入所審査で基礎科を免除され本科に配属されている。特待生という可能性もゼロではない。
 しかし、自分は特待でも何でもない。
 入所金や受講料が免除されているなんてことはない。今は親が払っているが、社会に出たら働いて返済する約束をしている。
「あいざわって子なんか、自己PRやり直したのに、わけわかんない!」
「ジュニア上りたって大したことないし」
 早坂さんたちの言葉は美優の胸の奥をかき混ぜる。
 周りの年上のレッスン生が「やめなよ」と注意しても、彼女たちの不満は止まらない。
 心がずきずきと痛む中、美優は思う。
 何で自分が基礎科を飛び級で来たのか、そしてスタジオ見学の選抜に選ばれたのかもわからない。そんなの自分が一番知りたい。
 ここまでやっかまれるなら、あの子と変わって楽になりたい。
 心がざわっとする。
 あぁ、やだな。この気持ちになるの。
 鞄にTシャツやジャージ、プリント類の荷物をトートバッグにぎゅうぎゅうとまとめた美優が目を伏せたその時。
「選ばれなかったからって私たちを妬むなんて、醜いんですね」
 清かに通る声が、妬みに噛みついた。
 さよりさんだ。
「なっ、何ですって……?」
 早坂さんと周りの女子が眉間にしわを寄せて歯を軋ませるが、さよりさんは表情一つ変えることなく、丁寧に畳んだTシャツとジャージを鞄に入れると鞄を肩にかける。
 そして彼女たちを睨んだ。
「特待でも何でもいいですけど、悔しかったら先生やマネージャーさんたちに抗議に行ったらいかがですか? 失礼しますね」
 そう言葉とは裏腹に可憐に笑んださよりさんに腕を掴まれた美優は、ロッカー裏の暗がりから明るいレッスン室に引きずり出される。
 明るい所に出で改めてわかる。
 さよりさんの表情は怒り顔だ。
「さ、さよっ……さよりさん!?」
 まだレッスン室内にいる男子に唖然とされているのを肌で感じて、美優はさよりに声をかけた。
 だが、止まると思っていたさよりさんの足は止まらない。美優の腕を引きながら、摺りガラスの扉を押し開けロビーに出る。
 そして、下駄箱まで来ると美優の腕から手を放し、自分の靴をリノリウムの床に落として、はぁっと大きなため息を吐いた。
「……本当に、あぁいうの嫌い」
 靴を履きながら、何度もつぶやくさよりさん。
 美優もさよりさんに続いて靴を履き、ドアを開けて外に出た彼女の後ろを追った。
 その横顔は、どこかとても辛そうに見えて、
「さ、さよりさん……、大丈夫?」
 美優は思わず彼女の名を呼んだ。 「ごめんね美優さん、びっくりさせちゃって」
 さよりさんはそう言うと美優の腕から手を離し、もう一回、今度は悲しげに息をついた。
「でもあぁいうのは許せなくって」
 そんな彼女を見て、美優はすごいなとさえ思う。
 自分はうつむいて、何も言い返せてはいないのだから。