東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・8

 模擬オーディションという体の自己PR発表課題を終えた本科土曜日14時クラス。
 来週からの課題に向けて男女のペアを作り、各々任意の場所で演技プランの話し合いをするように。と酒井講師からの指示があった。
 演目は、シェイクスピア劇『ハムレット』。
 ハムレットには数々の名シーンがあるが、今回彼らが演じるのは、狂ったふりをして恋人に「尼寺に行け」と吐くハムレットと、彼の辛らつな言葉に傷つき嘆く恋人・オフィーリアの有名な場面。
 酒井講師の説明では、基礎科のレッスンにおいても『ハムレット』の一節を一人芝居として披露することが通例であるとうかがえる。
 ということは入所審査で本科合格を果たしたさよりとジュニアコースから飛び級した美優は、初めてオフィーリアを演じることとなる。
「組み合わせはこちらで指定はしないので、各々相手を見つけるように」
 酒井講師の説明に、美優は肩を落とす。
 これが本科の洗礼か。
 ジュニアコースなら、先生が相手を選んでくれたのに。
 自己PR発表をリテイクしたジュニア上がりなんて選んでもらえるはずない。
 自分から誰かを誘ってもきっと嫌がられる。
 思えば思うほど、気持ちが沈んでいく。
「美優さん、大丈夫?」
 隣にいるさよりさんが美優をそっとのぞき込む。
「あ、うん。大丈夫。全然平気だよ」
 美優はそう返すけど、作り笑いは不自然に見えたようで。
「今日は本科レッスンの初日でしょ。いくらでも挽回できるわよ」
 さよりさんにポンと背中を叩かれて、美優の背筋が伸びた。
 背筋が伸びて視界が広がると見えなかったものが見えてくる。
 蛍光灯に照らされたレッスン室内で、不安がっているのは自分だけではない。
 こんな初っ端でくじけていたら夢はかなえられない。
「……そうだよね。ありがとう、やる気出たよ!」
「お互い頑張りましょうね」
 美優の笑顔にさよりさんもほっと安心したように笑んだと同時か、酒井講師がパンパンと手を打った。
「用意はいいか? では、ペアを組むように!」
 酒井講師の号令と手拍子に、男女が一斉に動き出す。
 自分のそばから離れていくさよりさんには、ああ言った。言葉にしたら自分も奮い立つんじゃないかと思って言葉にしてみた。
 だけど、やっぱり恐怖心は消えてくれなくて、美優の心を食い始めた。
 疑惑の進級疑いのあるジュニア上がりなんて、選ばれない。
 俯いていたら選ばれないことぐらいわかってるし、自分から選びに行くくらいのガッツがあった方がいいに決まってる。
 だけど今は顔を上げる自信すらなくて。
 考えれば考えるほど下がる視界の先、すっと差し伸べられた手に美優はかすかに目線を上げた。
 すらっとして骨ばった手。男性の大きな手だ。
「藍沢さん」
 少しざらっとした声に名を呼ばれて顔を上げると、目の前にいたのはすらっとした体格に柔和な笑顔が印象的なメガネの青年。
 確か、最上葉遠さん。
 もうすでにモデルとして芸歴のある人で、クラスでも注目を集めている人。
 なんでこの人が自分の前にいるんだろう。
 人気もありそうな彼がどうして?  美優は返事を返すのを忘れてしまっていた。
   ふと。鋭い視線を感じてからの肩越しにレッスン室を眺めると、最上さんと組みたいと思っていたと思われる女子レッスン生たちと目が合った。
 睨んでる。
 はっと彼女たちと目線を逸らせてさらにうつむいた美優。
 なんで睨んでくるのか、意味が分からない。だけど敵視されるのは怖い。
 そんな美優の目の前で、最上さんは手を差し出したまますっと片膝をついた。
 何が始まるのかと思ったが刹那。
「藍沢美優さん。僕のオフィーリアになってください」
「……!」
 突然の王子様ポーズでのお誘いに美優もびっくりし、ざわざわとしていたレッスン室が彼の一声で一瞬静まり返った。
 どんな形であれ一足先に芸能界にで活動している彼は、クラスでも目立つ存在。そんな彼が、こともあろうにジュニア上りをパートナーに選んだのだ。
 気が付けば注目の的で、美優は思わず最上さんの手を取った。
「あ、あの……た、立ってください!」
 そう美優に願い出られて、最上さんは彼女の手を握り返して立ち上がる。
「ねぇ藍沢さん。これってペア成立でいいの?」
「え、えぇっ!」
「それとも他に、誰かと組みたかった?」
「あたしが選ぶなんておお畏れ多い!」
「なら、僕を藍沢さんのハムレットにしてほしいな」
 柔らかくにっこりと笑まれてしまっては、断る理由もない。
 むしろ、選んでもらえて安心しているし、うれしい。
「……は、はい。ヨロシクオネガイシマス」
 消え入りそうに答えると、最上さんはぱぁっと満面の笑みを見せる。
「はい、こちらこそ♪」
 へへっと屈託なく笑い声をあげた最上さんは周りの反応を気にすることもなく、周りの反応を気にしている美優を誰もいないレッスン室の隅の方に連れ出した。
「藍沢さん、ここでいい?」
 屈託のない笑顔で尋ねられたものだから、美優はうんうんと頷き、
「はい、大丈夫です」
 と答えた。
「よかった。じゃぁ『素読み』しよっか。座ろ?」
 最上さんが壁を背に腰を下ろすと、美優も彼の正面に座った。
 レッスン室内の様子が全く分からないような位置取りにしてくれたのは、彼の優しさなのだろう。
 彼に倣って、先ほど酒井講師から手渡されたプリントを広げる。
 だが一点だけ、美優は彼に訊くことがあった。
「……あの、最上……さん」
 おずおずと最上さんを伺う。
「はい、最上ですよ」
 美優に初めて名を呼ばれ、最上さんは正解と言わんばかりに名乗った。
「最上さん。あの……」
「ん?」
 ジュニア上りはこんなことも知らないのかと思われたらいやだな。と美優は思った。だけど、聞かぬは一生の恥とよく言うではないか。と意を決する。
「……『すよみ』って、何ですか?」
 最上さんは瞬で状況を把握し、
「ごめんごめん。『素読み』は素読とも言い、本読み初見で台本を意味や内容を考えないで感情を入れずに正確に読んでみること。これやっとくと、純粋にセリフが入ってくるし、変な演技のくせがつきにくいんだって」
 と丁寧に教えれくれた。
「そうなんですね、ありがとうございます。……すみません何も知らなくて……」
「謝ることないよ。素読みの存在を知らない人もいっぱいいるし」
 そう美優を慰めて、周りを見回した最上さん。
 美優も同じように周りを見ると、本読みの段階でもう感情を入れているペアもいた。
「素読みしても意味ないしっくりこないって人もいるよね。僕の場合は、去年の先生に『素読み』を教えてもらって、尚且つ自分に合ったから、台本貰ったら真っ先に素読みするんだ。まぁ、やり方は千差万別だけどね」
 説明して最上さんは改めてプリントに向き直った。
「説明いただいてありがとうございました。あたしも最上さんに合わせます。よろしくお願いします」
 美優もお礼を言って、渡されたプリントを手に最初のハムレットのセリフを待つ。
 周りの受講生の声と声が混じる中、最上さんはすっと腹式で息を吸った。
「もしおまえが結婚するなら、持参金の代わりにこの呪いの言葉を送ってやる。おまえがたとえ氷のように貞淑でも、雪のように純粋でも、人はおまえを誹謗中傷するだろう。尼寺へ行け。さようなら。もしおまえが結婚することがあるなら、馬鹿と結婚するがいい。賢い奴は、寝取られた亭主になることをよく知っているからな。尼寺へ行け、すぐ行け。さようなら」
 最上はただ淡々と読んでいるだけなのに、彼のざらついた個性的な声も相まって無表情ながらもまるでハムレットがそこにいるかのよう。
 圧倒される。
 美優も負けじと、だけどつっかえないようにと文字を追いながら息を吸った。
「おお、神々よ。どうか元のハムレット様に戻してください」
 たった一文だけど、ほほがほっと熱くなる。
 美優が文章を読み終えると、軽く間をおいて最上さんも続きの文章を読んでいく。
「おれは女たちの化粧のことも聞いているよ、よく知っている。神は女たちに一つの顔を与えたが、女たちは別の顔を作るのだ。そして気取って歩き、気取って喋り、神の創造物に別の名前をつけ、ふしだらな行状を無知のせいにする。……おれはもう我慢できない、気が狂いそうだ。人間は結婚すべきではない。すでに結婚している奴らは、一組を除いて、そのままでいい。残りは結婚しないまま生きてゆけ。尼寺へ行け」
「ああ、なんと高貴な心が錯乱してしまたのでしょう。洗練された言葉、勇敢な剣、鋭い洞察を持った方が、この国のバラと讃えられ、姿形の模範、行動の規範とされ、仰ぎ見る者の太陽と讃えられた方が、落ちてしまった。女のなかで最も落胆した惨めなわたし。ハムレット様のうれしい誓いの蜜をすったわたしが、高貴に君臨する理性が心地よい鐘の音が、突然変調するように、調子はずれで耳障りになってしまうのを見聞きしようとは。満開に咲き誇る若い容姿が狂気のに荒れ果ててしまった。ああ、なんとみじめなわたし、かって見たもの、今見るもの、その痛ましい変わりようをこの目で見ようとは」
 最後まで読み終えて、美優ははぁっと大きく安堵の息をついた。
 噛まずに、間違えずに読めた。
「お疲れ様。どうだった?」
「えっと、ハムレットとオフィーリアのおかれている状況が分かって、よかったです」
 何の先入観のないまま読んで、自分の演じる彼女は不幸の底の底に落ちてしまったことを知った。
 次にこの文章を読むときには、もう、不幸の底に堕ちた女性としてオフィーリアを見てしまうし、そう演じてしまう。
 だけど、演じることができるだろうか。
 ジュニアコースでは、自分の感情を解放させるという形での喜怒哀楽の表現はあったし、実際に有名な作品の一説を演じる課題ももちろんあった。だけど、それはすべて浅いところでの感情だった。
 こんな悲しみの底の底の演技はしたことがない。
 美優はちらと最上さんを見た。
 基礎科は、もっと深い感情の演技をやってきたのだろうか。
 美優の目線に気が付いた最上さんは、自分のほほに人差し指を這わせた。
「困ったことがあったら遠慮なく! 困ってるって顔に書いてあるよ!」
 言われて美優は両手で顔を小さく隠す。やっぱり、感情が顔に出てしまっていた。
「……ごめんなさい、ジュニアコースではこんな感情の底の底みたいな演技、やってきてないんです……。だから、できるかどうか自信がなくて……」
 美優の吐露に最上さんは、
「そっかー」
 と相槌を打ったのち、少しの間うつむいて黙っていたが、パッと顔を上げた。
「藍沢さん、オフィーリアって幾つくらいだと思う?」
「え」
「家族構成は? この子、ハムレットのことどのくらい好きで、いつも彼からどんな言葉をもらっていた? この場にいるのはどうして? ――っていうか、この舞台の時代、国、情勢……こういう設定と台詞からキャラクターを読み解いて、 なんでこの言葉を選んで言ったのかとか、このときどんな気持ちになってたんだろうとか、自分なりにオフィーリアを深く読み込んでいったら、この子の気持ちがわかるとおもうな」
 想像する事柄が多すぎてキョトンとする美優に、最上さんは続ける。
「大丈夫。不安なのは藍沢さんだけじゃないよ。僕も狂ったふりとはいえ女の子にこういう暴言吐くのちょっとウエッて思ってるから、役のことを理解できない自分もいる。だけどこの人を演じるにはこの人にならなきゃならない。僕はその間は『最上葉遠』を消さなきゃならない……って、基礎科でハムレットを大失敗した僕が言っても説得力ないんだけどね」
 へへっと自嘲した最上さん。
 その失敗した様子がありありと見えるようで、美優は大きく首を振る。
「いえ、最上さんのお話、説得力ありました。あたしジュニア上りだし、一番どへたくそだし、さっきの自己PRも大失敗して誰にも選んでもらえないって思ってましたから……最上さんのリベンジ相手に選んでもらえてうれしいです! あたし、頑張ります」
 美優の言葉に、今度は最上さんがきょとんとする番。だがすぐいつもの柔和に笑んだ。
「ありがと。でも、これだけ言わせて。僕は藍沢さんのことジュニア上りのどへたくそだなんて思ってないよ。そりゃ飛び級したって聞いた時はちょっとは驚いたけど、ここにいるってことは、進級審査で努力や才能が認められたれっきとした本科生。声もすごく特徴的だから経歴込みで目立っちゃうんだろうけど、大丈夫!」
 最上さんの言葉に、美優の心もほっと解ける。
 このレッスン室にいるたくさんの中の一人に認めてもらえたことが嬉しかった。
 ここにいても大丈夫なんだ。
「はい、ありがとうございます」
 美優が笑顔で返すと、最上さんはふっと安堵の息をついた。
「よかった。ずっと表情が硬かったから心配してたんだ。基礎科すっ飛ばした分やってない基礎訓練とか表現とかあって不安かもだけど、僕でよかったら話聞くから、何かわからないことがあったら気負わず聞いてね」
「はい、お願いします」
 美優が笑顔で返事を返したその時。
 曇りガラスの扉がノックされ、キィっと開く音に数人が気が付いて振り向いた。
 レッスン室内に入ってきたのは、先ほどの自己PR課題で全員のスピーチを聞いた高崎マネージャー。
 彼女を見るなり、生徒の表情が心なしか硬くなる。
「酒井先生、今大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
 と、酒井講師が応えて高崎マネージャーを招き入れると、彼女はひとつお辞儀をしてレッスン室へと入ってきた。その後ろには、森永響もいる。
 心なしか美優は表情を険しくさせた。天敵を目の前にしてはどうしようもない。
 高崎マネージャーは扉付近で立ち止まり、レッスン室内のレッスン生を見渡して口を開いた。
「皆さんは座ったまま聞いてください。昨年度も本科生の方はご存知かと思いますが、当養成所本科のカリキュラムの一つに、抜き打ちオーディションというのがありまして。このクラスでは先ほど行わせていただきました」