東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・7

 本科土曜14時クラスの自己PRレッスンがひととおり終わり。
 あとのレッスンを酒井講師に任せ、森永は一人ロビーのソファーに腰掛けて学籍簿のコピーに目を落としていた。
 そして時折、重苦しいため息を吐いていた。
 数時間前もこうやってこの紙を見ていた。
 ただ学籍簿がコピーされただけのまっさらだった紙には、三色ボールペンの走り書き。その彩りはまるで彼らの未来のようだった。
 この赤黒青の三色が、彼らを鼓舞し、幻滅させる。
 森永はまた重く息をついた。
 自分がレッスン生の生き死にを握っているように感じられてどうしようもなかった。
 しかし、そんな大事なことよりももっともやもやとした気持ちを抱いていることに苛々していた。
 まさか数時間後にこんな気持ちになりながらこの紙と対峙することになるとは。
 森永は眉間に皺を寄せ、またため息を吐いた。
 だが、仕事はしっかりとこなさなければならない。それは声優の仕事であろうが、声優とは関係のないバイトであろうが同じこと。
 森永は再び学籍簿のコピーと対峙する。
 もう粗方、選抜するレッスン生の目星はつけてあるが、この中からスタジオ見学に連れていく4名を選ばなければならない。
 とはいえ申し訳ないが、昨年度に本科だった者と25歳以上のものは除外するように事務所から通達を受けている。
 なぜならば、本科のカリキュラムの中にこの抜き打ちオーディションは組み込まれており、本科二年目の受講生は前年度に受験しているため。
 あのクラス内に前年度、選抜された者がいるかはわからないが、当制度を知ってる人間と知らない人間で格差を生みたくないとの判断なのだろう。
 年齢が高めの受講生に至っては、よっぽどの才能か声質か、余程の努力が花開かない限り事務所所属の可能性が低い。
 それは昨今の声優人気が影響している。
 年齢が若ければ若いほど感受性も可能性も伸びしろがあるとみられるし、第一に活躍できる年数が違う。
 事務所とて、長く役者を使いたいのだ。 
 出来レースのソレで嫌悪しかないし、まさに殺生のそれだが仕方のない事。森永も19の時に事務所に入った身であったし、自分がレッスン生だった時もこういうことがあったのだと納得する。
 選外の学籍簿のコピーを申し訳なさ半分事務的半分で脇に省けば、紙の厚さは半分以下になる。
 ガラステーブルのてっぺんで揃えなおしてパラバラと捌くと、決まって件の受講生の顔が見える。
 短眉ばさばさまつげのパッツン姫カット。
 またキミか、藍沢美優。
 と、何度目かのため息を吐いた時。
「森永くん、助け舟出したでしょう」
 布製のコースターが目の前に敷かれたと思ったら、その上に湯気を上げるマグカップが音もなく置かれた。
 見上げると高崎が腕を組んで自分を見下ろしている。
「……何のことですか?」
 森永は彼女と目が合うなり一瞥し、軽く会釈はしつつコーヒーは入ったカップを手にし、一口含む。
 ブラックだ。
 カップから口を放して一口飲みこみ、森永は高崎を見ないままカップを置いて学籍簿のコピーに向かい合う。
「まったく。とぼけても無駄。隣にいて気が付かないわけないでしょう」
 と、自分の向かいに大きめのマグカップを置きスツールに掛けた高崎の顔はまだ呆れている。
 もっとこっぴどくがっつり責められると思った。
 いや、がっつり叱られた方がまだよかったかもしれない。
 自分のやったことは、ある意味レッスン生たちへの脅しであるし、あの子への助け舟であったのだから。
 俺は、あの子が言葉に詰まり目を閉じたとき。床にレモンティーが入ったペットボトルを投げ落とした。
 らしくないことをしたことも、禁じ手だったこともわかっている。
 あの場所でガチガチに緊張し、少し均衡が崩れたからと発表内容が飛ぶようでは、舞台でもスタジオでも使い物にはならない。基礎科生なら温情で許されることはあっても本科生程度の実力が認められて進級したなら、なおさら。
 放っておけばよかったことは百も承知だ。
 だけど頭で考えるより手が動いた。
 何故。
 二十数人の好奇心や敵視によって針のむしろとなり顔面蒼白になって震えるあの子を助けたかった?
 それとも、あの子がどんなことを話すのか、気になった?
 なんであの子なんだ。
 彼女のことが気になる自分を認めたくなくて。ふと視線をずらすとテーブルの端、底が若干つぶれたレモンティーのペットボトルが陽の光に照らされてきらきらと柔らかな影を落とす。
 森永はコーヒーカップをもう一度持ち上げて、自分の気持ちに折り合いをつけるようにブラックコーヒーを一口、もう一口と含んだ。
 そして、静かにカップをコースタの上におろす。
「……本当に手が当たっただけですよ」
 ペットボトルの底に付いた凹みは、手が当たって会議机から落ちただけでは説明がつかないけど――。
 高崎の顔は見られない。
 目線をレモンティー色のカーペットに向ける。
 高崎はふぅと大きな息をつき、呟く。
「……そういうことにしておくわ」
 その言葉に、森永は小さく安堵したが、
「それで、だれを選ぶか決めた? 酒井講師は誰を選んだの?」
 と、高崎に次の難問を振られて安堵の気持ちも一気に消え去るのを感じた。
 そう、選ばなければならないのだ。
 有望株を。
「酒井講師には先ほどの休憩中に男女一人ずつと次点一人を選んでいただきました」
 気持ちを切り替えて森永は、パーカーのポケットからメモの切れ端を取り出した。
 酒井メモだ。
 メモはまだ開かない。
「で、高崎さんは誰が良かったですか? 男女一人ずつと、次点を決めてもらえるとありがたいんですよね」
 森永に振られて高崎は、顎に指を当ててうーんと小さく唸った。
「そうねぇ。女子だったら北原さん、男子なら最上くんかしら」
「次点は?」
「森永くんの後に。でいい?」
 含みのある言い方に森永はちらと彼女を見ると、高崎は除外されたレッスン生の学籍簿のコピーを手早く回収していた。
 他意はなさそうな様子に、
「まぁ、いいですけど」
 と森永は、目の前に置いていた酒井メモをそっと手に取りゆっくりと開いた。
 雑な走り書きで記されていたのは。
「『北原、十時。次点、早坂』。まぁ、妥当ですかね」
 メモを開いてテーブルにおいて、代わりに鞄からペンとメモ帳を取り出した森永は、黒で『北原2』と書き記す。その下に『十時1』、『最上1』と記し、数行開けて『早坂0.5』と書き入れる。
 要するに講師とマネージャーが両方推薦した北原は当選確実ということになる。
 ペンの色を赤に変えて北原の名前の下にアンダーラインを引くと、高崎がメモを覗き込んだ。
「まぁ、北原さんよね。彼女ならどこに出しても恥ずかしくないわ」
 高崎はうんうんと頷いて、で。と森永に振った。
「森永くんは誰を選ぶの?」
 森永は一瞬だけ高崎と目を合わせると、北原の学籍簿のコピーをテーブルに置いた。
「まぁ、あの時間の発表でダントツは、北原さんでしたよね。あの子、特待生か何かですか?」
「入所金もレッスン費用もちゃんとお納めいただいてます。ただ、事務所が注目しているレッスン生の一人で間違いないわね」
 本科入所を果たした一人として、事務所も力を入れたいというわけか。
「じゃぁ、思いっきり社会勉強していただきましょうということで」
 森永は、北原の学籍ののコピーに丸を書いて中に『合』と記し、続ける。
「男子はやはり、酒井講師と高崎さんがあげた二人かなと」
「十時くんと最上くんね」
「えぇ。まぁふたりとも自分の個性を存分に発揮していて甲乙つけがたかったので」
 0.5ずつで。と十時と最上に点数を振り分ける。
 こう明文化すれば、北原、十時、最上、そして早坂の4人を選べばいいことがわかる。
「決まりですかね」
 森永が4人の名を丸でぐるりと囲もうとしたその時、
「まって」
 高崎が声を上げる。
「私、次点、言ってないけど?」
「あぁそうでした。失念してましたすみません。で、誰ですか?」
 森永は『早坂』の下の行にペン先を持っていくが、高崎からその名を聞いてはっと顔を上げた。
 そしてその名を頭の中でリフレインさせて、無意識に眉間にしわを寄せ小首をかしげてしまった。
「……正気ですか?」
 聞き返された高崎は得意げに頷いた。
「正気よ。声も特徴的だし若いから伸びしろも十分。メンタルさえ整っていればいい役者になると思う。藍沢さん」
「……いや、そのメンタル今ヤバいじゃないですか。豆腐超えて朧豆腐ですよ? あの子を現場に連れて行ってミスられた時、矢面に立つのは俺ですよ?」
「大丈夫。私も一緒に叱られるし、謝るわ」
「一緒に謝るって……高崎さん、あの子に肩入れしすぎじゃないですか?もしかして、あの子も事務所的に売り出したい感じですか……?」
「あの子に肩入れしすぎ……って、あんなことやったあなたが言える立場かしら?」
 そういう高崎は呆れ顔。しかもペンで指されてしまって森永はぐっと言葉を飲み込んだ。
 ……そうでした。
 レッスン見学で、しかもオーディションの審査中にあんな禁じ手を犯した点前、森永は何も言えなくなってしまう。
 ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
 まぁ、弊社マネージャーが推すのであればと、森永は『北原2』を『北原3』に修正し、『藍沢0.5』と書き足し、腕を組んだ。 「名前が挙がってるのが5人。北原さん、最上くん、十時くんが合格で。そうなると早坂さんか藍沢さん、どっちか落とさねばなりませんけど」
 と、高崎に意見を仰いだその時。
「じゃぁ森永くんの残り0.5点を振り分けたらいいんじゃないかしら?」
 高崎から物言いがついた。
「え、何ですかその数字。俺は3人選んだじゃないですか。北原さんに、最上くん、十時くん。ほら?」
「持ち点、2.5でしょ? 森永くん、その3人に合計2点しか振り分けてないけど」
「……っ」
 森永は言葉を飲み込んだ。
 高崎のその理屈は正しい。
 男女二人ずつと次点を選出するということは、数字に置き換えればそういうことだ。自分で提案して失敗したと森永はそっとメモを閉じた。
「心配しないでください。発表までにはどっちか選びますよ」
 これも仕事ですから。とテーブルの上の書類をまとめだした森永に、
「よろしくね」
 と得意げに笑んだ高崎は、マグカップとコースターを手にスツールから腰を上げた。
 歩き出した高崎が給湯室へと向かったのを気配で感じ取って森永は、ほっと息をつき、ぬるくなったコーヒーを一気に煽った。
 脳裏をよぎるのは、自己PRの最中。
 頬を染め黒い瞳をキラキラさせて『しろねこさん』を演じた声優の演技に感銘をうけたと話していた、あの子。
 まるで初恋の相手に告白しているようだった。
 自分はあのスピーチを聞いて、率直に思った。
 ――聞けて良かった。と。
 森永はコーヒーを飲み干して、自分の感情に呆れたかのようにまたため息を一つ。
 西に傾いた日は、レモンティの色をさらに濃くしてガラステーブルに落ちていた。