東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・6

 レッスン室の真ん中に一人で立ったら、味方は誰もいない。助け船を出してくれる人もいない。
 だから、何か、ひねり出さなきゃ。
 でも、何も言えない……。
 こんなピンチの時、美優が縋るのはあの人だった。
 助けて、『しろねこさん』……!
 美優は瞑った目に力をさらにぎゅっと力を入れた、その時。
 ボンっと何かが落ちた音に、美優は思わず目を開いた。
 何事かとあたりを見回す間もなく、音の原因はつま先に当たる。
「え?」
 ふと足元を見ると、横倒しになったレモンティーのペットボトル。
 ペットボトルに見覚えがあって顔を上げると、座ったままの森永響が前に向けて手を伸ばしている。
 ペットボトルを取ろうとしたら指が当たり転がったのかと思ったけど、それにしては彼の表情が今までと違う。
 先ほどまでの人を小ばかにした表情ではない。
 眉間に皺を作り、口を一文字に結んでいる。
 不意にペットボトルを落とした人間が、こんな顔するだろうか。
 机の周りのレッスン生も皆、森永響に注目し、美優が目を丸くして見つめる中。彼は短く息をついてまた余裕の笑みを浮かべた。
「……お騒がせしてしまい申し訳ありません。不注意で彼女の発表を止めてしまいました」
 そう言うと森永響は立ち上がって右へ一礼、左へ一礼、謝罪の意を込めて頭を下げる。
 レッスン生たちは黙ってその様子を見ていた。
 次に森永響は、いまだ呆気にとられている酒井講師に向き直ると深々頭を下げる。
「酒井先生、大変申し訳ありませんが、リテイクしてあげていただけませんか? お願いいたします」
 酒井講師はまだ呆気に取られている。椅子に掛けている高崎マネージャーに至っては、口をぽかんと開けて彼を見上げていた。
 無理もない。
 客観的に見ればレッスン見学の声優が、自分のミスでレッスン生の発表を止めた形なのだから。
 これが現場なら取り返しもつかないことになっていただろう。
 やっと事態を把握したかのように細々と体を動かした酒井講師。この状況を如何すべきかといったように数秒唸ったが、いまだ頭を上げない森永響を見、参ったように頭を掻いた。
「――頭を上げてください。わかりました。特別に、ですよ」
 と呆れた声で森永響に告げ、今度はレッスン生に向かった。
「目は口程に物を言うもんだ。人の発表を心静かに聞くのもレッスンのうちだぞ」
 と、彼らにくぎを刺す。
 酒井講師、今度は美優に向かい、
「藍沢、本来ならやり直しはない! これくらいで止まるんじゃない!」
 と声を張った。
 酒井講師の声にハッと我にかえった美優は、
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
 と頭を下げたが、脳裏に焼き付くのは森永響の真剣で少し怖い感じの顔。
 何だったんだろう……。見間違えた? でも……。
 足元を見れば、レモンティーのペットボトルがキラキラと蛍光灯の光を反射している。よく見たら底の方が微かに凹んでいた。
 不意に指が当たってできた凹みにしては、不自然なくらいに歪んでいる。
 美優はしゃがんでペットボトルに手を伸ばすと、
「藍沢さん大丈夫ですよ。そのままで」
 と椅子から立ち上がりながら手のひらを美優に向け、森永響は穏やかな声で彼女を制止した。
 そこで待つようにジェスチャーし、美優の元へと歩を進める。
 伸ばした手を引っ込まることも忘れ、しゃがんだままきょとんとする美優の前まできた森永響は、彼女の前にしゃがむとペットボトルを拾い上げ際、真顔になって、
「……空気に?まれるなんて、まだまだ甘いですね」
 と、誰にも気付かれないほどの小さな声で囁いた。
「……っ!」
 所属声優からの厳しいダメ出し。
 普段だったら、相当落ち込んでしまったに違いない。
 だけど美優は微かに眉根を寄せて、森永響をキッと睨んでしまった。
「お手並み拝見しますよ、基礎科ちゃん」
 挑戦的な美優の表情を見た森永響はふっと笑むなりスッと踵を返し、自分の席へと帰っていく。
 美優は森永響が椅子に掛ける直前までその姿を見つめていたが、ゆっくりと立ち上がった。
 森永響の言葉に腹は立ったが、確かにその通りだ。
 まだまだ技術面やメンタル面は甘いし、期待されてるって聞いて天狗になってた。
「藍沢、できるか?」
 酒井講師の呼び声に、
「はい、お願いします」
 と美優は強気に声を張った。
 ここで何も発表しないまま棄権するということは、極端に言えば自ら夢への道を断つということ。
 それだけは絶対にしたくない。
 さっきの一件で分かった。
 ここはアウェイ。
 あたしはこの中で一番経験も浅く、一番下手だ。
 こんなところで折れてたら、『しろねこさん』に会うことはできない!
 自分にも周りにも、負けない。
 こんなところで負けるもんか。
 一番下なら、あとは這い上がるだけ――。
 酒井講師はレッスン室がいつもの空気に戻ったことを見届けて、
「リテイク、用意――!」
 今一度、拍子を打った。
 美優は間髪入れずに息を吸い。
「藍沢美優、15歳高校1年、千葉県出身在住、昨年度はジュニアコースでした」
 二度目のジュニアコースという言葉だったが、酒井教諭の一喝が効いているのかレッスン室内はざわつかない。
 万が一ざわつかれても、今度は止まらない。
 美優は、さっき言えなかった言葉の続きを紡ぎ出す。
「あたしは一度、中学1年の時、人生で盛大に転んだことがあります。事情は端折りますけど、人生の底でした――」
 ――そんなあたしを救ってくれたのが、『しろねこさん』。たまたま見たアニメに出ていた一回だけのゲストキャラだ。
 あたしは運が良かった。
 彼と出逢えた。
 彼がいたから、夢を見ること、あきらめずに進むこと、何度もいろんなものを諦めたくなった時も這い上がることができた。
「あたしは、『しろねこさん』の声優さんと同じ立場、声優として会ってお礼がしたい。そしてあたしも、誰かの心の支えになれる声優になれたらこれ以上の幸せはありません。将来は、誰かの心に寄り添えるキーパーソンを演じたいです。よろしくお願いします」
 スピーチを終えた達成感と安堵感で胸がいっぱいになりながらお辞儀をし、頭を上げた美優が最初に目を合わせたのは森永響だった。
 森永響は美優と目が合うなり、ふと下を向いてメモを取り出す。彼の隣に座る高崎マネージャーも同様にメモを取っている。
 腕組みをしている酒井講師は、ひとつ大きな息をついたのち、さらに眉間の皺を濃くした。
「やりゃできんじゃねぇか。自分に集中してないから、場の空気に飲まれるんだ。これが舞台だったら、取り返しつかないぞ!」
「す、すみません」
 怒号に思わず頭が下がった。
 確かにそうだ。
 これがオーディションだったら、『もう一回やらせてください』だなんてフェアじゃない。
 舞台だったら、会場の空気を一瞬にして乱してしまう。
 先ほどの達成と安堵感は一気に影を潜め、今度は無力感と悔しさがこみあげて、レモンティーのペットボトルがキラキラと蛍光灯の光を反射させている床まで目線を下した。
「スピーチ内容はまぁよかったし、ひたむきさっていうのも伝わってきた。あとはメンタル豆腐をどうにかしろ! 次最後、北原」
「はい、ありがとうございました!」
 ダメ出しに礼をして、逃げるように自分の座っていた場所に戻る美優に替わって、さよりさんはしっかりと返事をしてレッスン室内のセンターに立った。
「北原さよりです」
 大トリを任された少女は意気揚々と名前を告げる。
「……用意、アクション!」
 森永響も高崎マネージャーも注目する中、酒井講師の打つ手がレッスン室の静寂を破る。
「北原さより、16歳高校2年生、東京都出身在住、1月に受験した入所試験で本科に配属されました」
 入所試験で本科所属。
 それがどれだけの快挙かは、この教室にいる全員が知っている。
 東京ボイスアクターズスクール基礎科への入所は、余程のことが無ければ誰でもできる。しかし、本科入所は別の養成機関でレッスンを積んでもなお難しいとされている。
 それは元ジュニアコースの美優でさえ与り知る事実だ。
 だがレッスン室内は、先ほどより騒ぎにはならない。『人の発表は心静かに聞け』という酒井講師の喝がまだ効いているようだ。
 皆の注目を一身に浴びてはきはきと語っていたさよりさんは、レッスン室内の反応を静かに受け止め、にっこり微笑んだ。
「この件に関しては私が一番びっくりしています」  無意識のアドリブ力で切り返した。
 酒井講師が目を見張り、メモを取っていた高崎マネージャーの顔が上がる。森永響もまた興味深げに彼女の言葉を聞いていた。
「私の強みは物怖じしない強さだと自負しております。私は――」
 自信に満ちた明朗な発表は、聞きやすく耳障りの良い声に乗る。
「――将来は、与えられた役は何でもこなし、人気だけでなく実力も兼ね備えた表現者になります。よろしくお願いいたします」
 明朗で非の打ち所がない自己PRは酒井講師の評価も高く、大トリに相応しい出来栄えであった。
 これがもし本当のオーディションなら、主役を射止めるのは間違いなく彼女であろう――。>
 藍沢美優と北原さより。
 ジュニアコースからの飛び級と入所試験本科合格。
 イレギュラーがふたり。
 違ったのは、一つ。
 心の強さ。
 格が違う。
 彼女はヒロインなら、自分は引き立て役。いや、モブにもなれない。役なんか絶対にもらえない。
 さよりさんが隣に戻ってくる前までに、このみじめな気持ちに折り合いを付けなければならない。
 一番下なら這い上がるだけなのに、頂上は果てしなく遠いことを思い知らされて、美優は下唇をかみしめる。
 あたしは事務所期待のレッスン生。
 絶対に声優になるんだから、こんなところでくじけてなんかいられない。
 酸っぱい気持を味わいながら美優の心がぐらぐらと揺れる。
 それに反して。
 酒井講師からダメ出しを受けるさよりさんのの表情と、森永響の前に置かれたレモンティは、キラキラと輝いて見えた。