東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・5

 一人目が発表を始めてから、時計の長針が一周しようとしていた。
 レッスン生たちの自己PR披露も折り返しを過ぎ、残すところ数人。
 発表を終えた者は緊張から解き放たれた安堵の表情で、レッスン室の真ん中に立つ発表者を見ていた。
 だが、美優はまだ呼ばれない。
 他に呼ばれていないのは誰なのかも把握できていないが、隣に座って発表者を見つめているさよりさんは、まだ呼ばれていないことはわかる。
 いつ呼ばれるか。
 呼ばれたらすんなり立つことができるだろうか。
 教室の真ん中まで行って、うまく発表できるだろうか。
 そわそわしていても、誰かの発表が終わるたびに次に呼ばれてもいいようにすんなり立ち上がる用意だけはしていた。
 肝心なとことでミスはできない。
 本科で一番初めのレッスンだし、あの人にかっこ悪いところは見せたくない。
 あの人――森永響はというと、ペンを回しながら発表を聞いていたかと思ったらうんうん頷いてメモを取ったりしている。その奥の高崎マネージャーも、手元の紙に何かを書いている。
 ふたりがメモを取る頻度は、前年度のクラスが基礎科だった者の発表に入ったあたりから、格段と増えた気がする。
「――将来は、主演をたくさん演じて音楽CDも出せる人気声優を目指しています。よろしくお願いいたします」
 ふわふわとしたツインテールを揺らしながら甘やかな声でスピーチをし終えて、ぺこりとお辞儀をしたのは基礎科一年目で進級を果たした16歳の女子。確か、名前は早坂麗実。
 自分と年齢も大して変わらないレッスン生の、美優はその余裕にあふれる表情をじっと見つめていた。
 愛らしさと自信に満ちたスピーチに圧倒される。
 ホワイトボードの前に立っている酒井講師は、うんと喉を鳴らすと早坂さんを見た。
「自分のキャラクターを押し出した、早坂らしい自己PRで印象に残りやすいと思う」
 お褒めの言葉に、早坂さんの顔がぱぁっと明るくなった。
「ありがとうございますっ」
 小さくぴょんと跳ねた可愛らしいお礼に酒井講師が一瞬微かにたじろいだ。だがすぐ咳払いをして。
「強いて言えば、情報量を詰め込み過ぎて早口になっていた。それと、話している間はしっかり立つこと。次、十時昴」
「はいっ。ありがとうございましたっ」
 酒井講師のダメに早坂さんはニコニコしてお礼を言うと、自分の位置に戻っていった。
 彼女と入れ替わり返事をして立ち上がったのは、短髪に切れ長の目が印象的な精悍な印象の男子。
 真一文字に口を結んだ彼は、立ち位置に着くと綺麗な所作で正面を向いた。
 彼のような人を『硬派』というのだろう。
「十時昴です」
 笑顔はないが、しっかりしたお辞儀に真面目な表情も好印象だ。
「用意、アクション!」  酒井講師の掛け声と手拍子が響き、彼――十時さんはすっと息を吸う。
「十時昴、19歳大学2年、埼玉県出身在住、昨年度は基礎科1年目でした。俺は――」
 聞きやすい爽やかな声質と誠実さと堅実さをウリに、彼も堂々と発表していった。
 体育大学に所属し大会にも出たことがあるという彼は、アスリートではなく声優という道を選んだ。その理由も明確に伝え。
「――『この役は十時昴以外ありえない』と制作側から直々にオファーを頂けるような、人気と実力を兼ね備えた表現者を目指しています。よろしくお願いいたします」
 最後のお辞儀もぴっと九十度。この丁寧な所作は見習うべき点だ。
 室内の注目は十時から酒井講師に移る。
「堅実で明確な自己PRで、安心して聞いていられた。だが少し面白みに欠ける。まぁ、性格なのだろうけど……」
 酒井講師はそうつぶやき交じりに言うと、
「次、最上」
 と、十時さんの番を終わらせた。
「はい、ありがとうございました」
 性格という根本的理由のダメも何のその。十時は最初と同じようにきれいなお辞儀をして集団に戻っていった。
 きっと彼の中では、自分という芯が通っているのだろう。
 十時に代わり酒井講師に呼ばれてすっと立ち上がったのは、厚い前髪に眼鏡をかけた痩身の男子。
「はい」
 と柔らかく返事をし、立ち位置に着くと綺麗な所作で正面を向いた。
「用意、アクション!」
 酒井講師の号令に、最上さんはふわりと笑んで見せる。
「最上葉遠です」
 柔らかな笑みは人懐っこささえうかがえるが、彼の名を聞くなり一部のレッスン生が小さく色めく声を上げる。
 え、なに?
 美優の疑問を置き去りに酒井講師の手が打たれ、彼はさらにふわりと笑んだ。
「19歳大学2年、長野県出身、神奈川県在住。昨年度は基礎科1年目でした。芸歴としては二年ほど前から、雑誌の読者モデルとして芸能活動をしております。あ、でも、読モなので事務所未所属です」
 ファッションに精通して雑誌などを購読していたら、読者モデルも認知される存在。何であろうと芸歴があるだけで拍が付くし、それだけ舞台慣れ現場慣れをしているということであるし、その分、度胸もついているということだ。
 その上少しざらついた声質も話し方も独特で、柔和な表情も相まって発表を聴く聞くものを魅了する。
「――主役でも脇役でも観た人の心に棘を残す。僕が演じたいそんなのはそんな役どころであり、そんな役者です。以上、よろしくお願いします」
 自分が声優になりたいと思ったきっかけを触り程度に交えて話し終わった最上さんは、スッとお辞儀をして微かにずれた眼鏡を直す。そんな所作さえ絵になる。
 酒井講師も腕を組み唸りながらダメを探している様子であったが、見つけることが難しかったのか。
「……個性が強すぎると嫌味になる場合が多いが、それが嫌味にならないのは、たぶん才能なのだろうな。ま、あえてダメを出すというなら、厚い前髪と眼鏡で表情がわかりにくくなってる点だが……まぁいい。よかったぞ」
「ははっ、ではレッスン中は前髪上げます。ありがとうございました」
 酒井講師のダメ出しに最上さんは早速改善点を提示し、一礼した。それにかぶって、酒井講師が次のレッスン生を指名する。
「次、藍沢美優」
 呼ばれた。
「あ、はいっ」
 体と声が思わず跳ねる。
 立ち上がって進み出る先は一番注目される場所。
 レッスン開始直後は、まさかこんな後だとは思わなかった。
 もっと前に呼ばれるんだと思ってた。
 後だったから、考える時間はいっぱいあったし、他の人のいい所を取り入れようとシナリオを何度も頭の中で作りなおした。
 そうやって作った自己PRだけど、『話したい事』はゆるぎなかった。
 美優はレッスン室の中心にたどり着くとくるり正面を向いた。向かって左から酒井講師、森永、高崎マネージャーが椅子に座している。
「あ、藍沢美優です」
 甲高くやや鼻にかかった勇ましい名乗りがレッスン室中に響くと、酒井講師の手が胸の前で開かれる。あとはその手が打たれるのを待つばかり。
 だが、ここに立って初めて見える。
 無表情の20数人分の瞳は、思ったよりも冷たく光ることを。
 そして、酒井講師の前にあるのはただのノートだが、森永と高崎の前に広げられているのは三月に提出した学籍簿のコピーであることを。
 多分皆、ここに立って初めて知るのだろう。
 これはただの授業見学じゃない。
 ――模擬オーディションであることを。
 そう認識すればするほど、美優の中の緊張の糸はピンと張り詰める。
 これ、絶対に失敗できない。
 本当のオーディションなら、つっかえたり、頭が真っ白になって自己PR発表が止まってしまったら、落とされる。
 選んでもらえない。
 『しろねこさん』に会えない……!
 そう思えば思うほど、頬の筋肉が重くなる。笑えない。
 ……いや、ダメ。
 ここは笑うとこ。笑えなくても、微笑むとこ。
 これは模擬オーディションだ。
 へらっと笑みを作った美優の目に入ったのは、利き手でペンをくるくると遊んで美優を見た森永であった。
 美優を斜めに見、片側の口角が上がっている。
 何あの笑い……? どういう意味……?
 訝し気に微かに顔をしかめた美優の耳に、酒井講師の声が響く。
「用意、アクション!」
 パンと乾いた音に美優はすぐ反応して見せた。
「藍沢美優」
 名乗った。
 あとは口の動くままに――。
「15歳高校1年、千葉県出身在住、昨年度はジュニアコースでした。私は――っ」
 一瞬で変わったレッスン室内の雰囲気に、美優は言葉を飲み込んでしまった。
 15歳高校1年、昨年のクラスはジュニアコース。
 その言葉がレッスン室内の空気を一瞬にして変えてしまったからだ。
 ジュニアコース履修者は、通例であれば基礎科に進級するのが定石である。即ち、15歳の高校一年で本科所属は、入所審査で本科合格を果たす以外に道はない。
 だが彼らの目の前には、その歳とジュニアコース程度のレッスンで本科に所属したレッスン生がいる。
 無表情だった二十数人の眼差しが、一気に表情を見せたのだ。
 元の冷たさに、好奇心、それに敵視が混じる。
 美優は思わず言葉を呑み込んでしまった。
 ――っ。
 ここで詰まっちゃダメ。
 再び意識を立て直そうとするが、無数の目線はまるで、自分を責めているように感じた。
 ジュニア上りがどうして本科に入れたの?
 まさか、裏特待?
 基礎科を飛んできたレッスン生のお手並み拝見と行こうじゃないか。
 実際に声は聞こえない。誰も口を開いていない。
 だけど皆がそう言ってるように感じた。
 カッと頭に血が上がる気配と頬が火照る感覚がすべてを支配する。そのあとに来るのは、霧のような、雲のような、真っ白な何か。
 いうなれば、ホワイトアウト。
 得体のしれないそれは、美優の頭の中の言葉や考えすべてをさぁっと掻き消していった。
 あれ。
 あたしは何を話そうとしてた?
 なにか、言わなきゃ……!
 だめだ、呑まれる……!
 こんなところで立ちすくんでちゃ、だめなのに……!
 このままでは本科初めての発表は終わってしまう。
 自分の無力感にさいなまれながら、美優はぎゅっと目を瞑った。
 コトバがでない……!
 終わっちゃう!!
 時間が。
 あたしの夢が。