東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・4

 開始五分前にレッスン着に着替え、ストレッチや発声練習などをして体を温めていたレッスン生は24名。
 本科土曜14時クラスの担当講師である酒井雅之さんの自己紹介を聞き、養成所で統一されて行われているストレッチと呼吸法、発声法を一通りこなした後、5分間の休憩となった。
 美優は水分を取りながら誰かを探すように辺りを見回すけれど、あの彼はどこにもいなかった。
 だけど居たらいたで避けまくり続けるのだろうけど。
「あの人、いないね」
 きょろきょろしている美優の隣で、水分補給をしていたさよりさんが声をかける。
 美優はその言葉に肩をひくっとっとさせ、
「べべべ、別に、あんな人探してなんかっ……!」
 と口をとがらして抗議するが、さよりはくすっと笑った。
 図星を指された格好だ。
 小さく息をついた美優にさよりさんは「ごめんね」と小さく詫びて、そういえばと話を切り出した。
「美優さん。一つ聞いてもいい?」
「うん、どうぞ?」
「レッスンって何をするの? マイク使ってアフレコとかやるの?」
「ううん。マイクの前に立つのは、俳優としての基礎と技術がしっかり身についてからって、前の先生が言ってた。やっても専科からって聞いたことがあるよ」
 世の中には声優養成所はたくさんあり、最初からアフレコ実習を取り入れている養成所もある。だが、東京ボイスアクターズスクールに限っては、まず、『俳優』を育成することに力を注いでいる。
「……いい声優はいい俳優ってことね。なるほど……」
 さよりさんは顎に手を当て、うんうんと頷いた。
 そうこうしているうちにレッスン開始時間になり、レッスン室に男性が入ってきた。
 ハンチング帽とベストが似合う小太りの男性は、酒井講師である。俳優出身の講師で、大手劇団で数々の舞台を踏んできたバイプレイヤーだ。
 彼の入室にレッスン生たちは次々と休憩をやめ、その場に腰を下ろす。
 酒井講師は全員が腰を下ろしたのを見届けて、コホンと咳ばらいを一つ。
「えー、今日は本クラス初日でもあるが、事務所所属声優と事務所マネージャーがこのクラスの見学をされる」
 床に座ったレッスン生の前に立つ酒井講師が大きな声で告げる。小柄で少し太り気味の体のどこからそんな声が出るのか。という違和感そっちのけで、事務所所属声優とマネージャーが見学するという言葉に、レッスン室内が微かに色めき立つ。
 美優もはっと息を呑んだ。
 無理もない。
 初日に、プロとして事務所に所属している本物の声優と新人発掘も行うマネージャーが、揃って直々にレッスンを見学してくださるというのだ。
 お出ますのは憧れの雲上人と、売り込むべき相手。
 だがその騒ぎも微かであるところはさすが本科。これがジュニアコースだったら、この時点で皆キャーキャー声を上げているところだ。
 いや、そもそも、養成所の予科クラスであるジュニアコースに、こんなチャンスはあるわけもない。
 これが本科という場所なのだろう。
 そう思案しながら、美優の胸も早鐘を打っていた。
 声優さん、誰が来るんだろう。
 今、売れに売れてる方かな? なら、あの人とか? それともあの人?
 と、思い浮かべた各々の顔と声を思い浮かべて胸の高鳴りを抑えるのに必死だ。
 周りを見れば平然を装っているレッスン生もいるが、声優養成所に通っているのだ。内心は、このレッスン室に入って来る二人が誰なのかとに期待が膨らんでいるに違いない。
 そんなレッスン室内の騒めきをよそに、磨りガラスの扉を開けて酒井講師がレッスン室に招き入れたのは、スーツ姿の女性とパーカーにジーンズというラフな出で立ちの男性であった。
 あ!
 周りから色めきだったの囁き声が漏れる中、異質な大声を上げそうになって美優は慌てて口を手で覆った。
 隣に座ったさよりさんも微かに声を漏らしたが、誰にも気が付かれてはいない。
 美優の目の前に現れたのは、30分ほど前に美優と問答を繰り広げたあの男だった。
 どおりで、レッスン生の中に姿を見かけなかったわけだ。
 おそらく、知っている声優のお出ましならば控えめにミーハー心を爆発させていただろう。だけど今やそんな気持ちすらわかない。
 なぜなら、相手が相手だから。
 え、なんで?
 なんであいつが??
 眉間にしわをたくさん作りながら彼を見つめる美優や色めき立ったりしている他のレッスン生達を前に、酒井講師はふたりに何かを促す。するとスーツ姿の女性とパーカーにジーンズという出で立ちの男はそろって一歩前に出た。
 今のところはどちらが所属声優かはわからない。
 もしかしたら、スーツ姿の女性は新人さんで、きっちりした衣装で来るようにとあの男に言われたのかも。
 だけど、仮に男の方が声優なら完全に干されフラグだ。
 かといってマネ―ジャーに突っ込んだとしても、十二分に事案だが。
 一人勝手に気まずい空気をまといながら、美優は願った。
 どうか、女性の方が声優であって! お願い!
 そのほうがまだ傷は浅く済む。
 が、案の定。
「おはようございます。東京ボイスアクターズでマネージャー業を担当しております、高崎颯子と申します。みなさん、よろしくお願いいたします」
 とスーツ姿の女性が挨拶をして半歩退き、彼女に代わって半歩前に進み出たのはあの男。
「おはようございます、はじめまして。東京ボイスアクターズ所属の声優、森永響です。僕も4年前までは皆さん同様にこの養成所で学んでいました。今日は僕も初心に帰るべく、皆さんのレッスンの様子を見学させていただくこととなりましたので、よろしくお願い致します」
 丁寧な自己紹介にレッスン生が声をそろえて、
「おはようございます。よろしくおねがいします」  と返事を返す中、美優だけは人知れず口をあんぐり開けた後、思わず顔を手で覆って天を仰いだ。
 男の方が声優だった。
 というか、自分が通う養成所の母体事務所に所属する声優の顔すら知らなかったなんて……。
 東京ボイスアクターズは数百人規模で所属声優を抱える大手であるからして、自分が知らない声優がいても無理はない。他のレッスン生も初めて彼を知ったという人も多いだろう。
 だけど所属声優に向かって、『レッスン生』はなかなかの失礼だ。
 自分は逆の立場だったら叱ってるかもしれない……。
 ああ、早速干されポイントを一点稼いでしまったなんて。
 と、美優は落胆しげんなりとうなだれた。
 一方の森永響は美優の落胆など全く意に介していないようで、レッスン室の床に座る受講生にお辞儀をして爽やかな笑顔を見せていた。
 逆に、それがせめてもの救いだ。
 見つけられて睨まれたら、その場で心臓が止まってしまうかもしれない。
 本物の声優のご登場で微かに色めき立つレッスン室内に、ぱんとひとつ手が打たれる。
 酒井講師だ。
 過去に大手の劇団に所属して舞台に立っていた経歴に見合う素早い腹式呼吸一発のあと、
「ということで早速だがお前たちには、俺と森永くん、そしてこちらの高崎マネージャーの前で1分間の自己PRを披露してもらう」
 と宣言する。
 その合図とともに立ち上がったのは、年上に見えるレッスン生数名。椅子や机を設置するためだ。
 ここは一番年下が動かねばと美優も立ち上がろうとする。しかし目の前の天敵の姿に腰が引けてしまって、結局あれよという間に机と椅子の設置が終わっしまった。
 傍らでは酒井講師が水性ペンでホワイトボードに文字を綴っていた。
 名前。
 年齢と職業or学年。
 出身県・在住県。
 前年度のクラス(基礎科一年目/二年目・本科etc)。
 芸能活動をしているものは芸歴。
 以下自由。
 これからの課題である自己PRで披露する内容だ。
 酒井講師は机と椅子を設置し終えた男子に礼を言うと、
「一人称は自分が日常で使っている言葉を使うこと。あと、いつもなら申告順に発表してもらうところだけど、今回はこちらからの指名順の発表となる。順番は完全にランダムだから、だれが真っ先に呼ばれるかはわからないぞ。今のうちにしっかり話す内容を考えておくように」
 とレッスン生たちに伝え、高崎マネージャーと森永には椅子に掛けるように促した。
 二人が椅子に掛ける中、フロアの中央にいたレッスン生たちも机の脇へと移動し、次々に腰を下ろす。
 美優とさよりもほかのレッスン生に倣って移動し、集団の隅っの方に座った。
 ふと机の方を横をみれば、森永響が書類を机の上に置いて椅子に掛けるところ。こちらに目をくれることもなく、鞄からペンケースと飲みかけのペットボトルを取り出して、丁寧に机に置いていた。
 レモンティーのさわやかな色がキラキラ反射し、思わず見とれてしまった美優の意識を、
「あと1分で開始するぞ」
 と、酒井講師が遮った。
 彼の言葉に少々ざわついていたレッスン室内がまたしんと静まり返り、各々が自分の課題に取り組み始める。ある者は紙にペンを走らせて話す内容を整理したり、またある者はあらかじめ作り上げたのであろうPR文を頭の中で暗唱したりしていた。。
 美優も気持ちを切り替えて森永響を一瞥し、ジャージのポケットからメモ帳とペンポーチを取り出すと真新しいページに向かう。
 いつ呼ばれるかはわからない指名制ということは、真っ先に呼ばれる可能性もゼロではない。
 どのタイミングで呼ばれてもいいように、今は心を動かすより頭を働かせる時。
 と、ジュニアコースの課題で自己PRを披露したときのことを思い出す。
 自己紹介と自己PRは違う。
 いかに自分という人間が魅力的か。
 いかに自分という人間を相手に好いて選んでもらうか。
 それが重要だ。
 そう教えてくれたのは、ジュニアコースの伊坂先生だ。
 期待してるぞ。
 数時間前の彼の声をリフレインさせて、頭の中で自己PRのシミュレーションをする。
 伝えることを雑多に組み立てて、削ったり肉付けしたり。
 発表時にメモは見ることはできない。だから伝えたいことはしっかりと頭の中でキーワードとして紐づけておく。
「よし、1分経過」
 酒井講師の声がレッスン室内に響き渡り、一番最初に呼ばれたのは男性であった。
 年齢も若くもなく上でもなく、名字の五十音も『あ』でなければ『わ』でもない。
 完全にランダムかと思ったが発表が進むにつれ、皆の順番に一つの法則を導き出した。
 発表順は五十音順ではなく、昨年度所属したクラス順の様であった。先に本科、基礎科二年目から、基礎科一年目と続いていた。
 昨年度も本科だったレッスン生と基礎科二年目だったレッスン生は、今まで何度も発表してきたのだろう、自分の強みを明文化した明朗で明確な自己PRを披露していた。
 それを酒井講師も高崎マネージャーも森永響も真剣に聞いている。自己PRを終えるか話し始めて一分が過ぎると、酒井講師がダメ出ししつつ良かった箇所をほめて次の発表へと交代となる。
 基礎科から一年で進級で来た者の中には早口であったりつっかえたりする者もいたが、さすが進級審査をクリアし本科進級を果たした精鋭だ。話す内容が頭から飛んでしまい黙り込んでしまう者はいない。
 あたしもしっかりやらなきゃ……。
 誰の前のスピーチだろうと……気まずい人物の前であろうと。
 森永響は、発表が終わったレッスン生を真剣な眼差しで見つめる美優を一瞬だけ横目でちらりと見た。そして、酒井講師からのダメを喰らうレッスン生に悟られないように微かに口の端を上げた。