東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・3

 ガラス扉の奥にはスタジオに続くようにロビーが広がっていた。
 入口手前には下駄箱が設置され、その奥にはお手洗いへ通じる磨りガラスの扉。反対側にパーテーションで仕切られたスペースがあって、その向こう側にはガラスのテーブルとソファーが置かれている。
 玄関から真っ直ぐ見る奥の部屋がレッスン室なのだが、いつもなら磨りガラスの向こうは真っ暗。だが、今日は電気が煌々とついていた。
 もう他のレッスン生が来ているのか。さすが本科生。意識が高い。
 美優は気を取り直すように一回だけ深呼吸をして、脱いだ靴を下駄箱に入れた。
 さよりさんもそれに倣ったが。
「美優さん、ごめん。お手洗い行ってきても大丈夫?」
「うん。この扉だよ」
「ありがとう。美優さんは先にスタジオに入ってていいわ」
「うん。じゃぁ先にいくね」
 返事を聞いたさよりさんはお手洗いへと入っていったので、美優はスタジオへと向かう。
 誰がいるんだろう。
 伸ばした指が冷たいガラスに着けばもう後は開けるのみ。
 手に腕にかかる重さを押し返すように、腹一杯に息を吸い込んで。
「おはようございます!」
 扉を全開にして声を張った。
 人口密度の極めて低いレッスン室の中に響くのは、自分の甘く高めの声。
 三方鏡張りの部屋で美優の目が捕らえたのは、鏡越しの自分の姿とやや線の細い男性の後姿だった。
 彼はくるりと振り返ると、ぱっちりとした明るい色の瞳で美優を捉える。アシンメトリーな明るい色のショートヘアに、同じくらい明るい色の大きめの瞳はどこかあどけない印象。やや薄い身体もとても印象的で。
 美優もまた、黒黒とした大きな瞳で彼を見た。
 彼は振り向き際こそ驚いた表情を見せたが、美優を見るなりふっと微笑み。
「おはようございます」
 と、はっきりとした明るい声で挨拶を返した。
 さすがは声優養成所の本科クラスのレッスン室にいる人。声がよく通っているし発声も発音も綺麗だ。それにすごく人当たりのよさそう。
 今まで感じていた緊張感がふっと消えた気がする。
 美優はそのまま会話を途切れさせないように、
「あ、あの、レッスンでご一緒させていただくことになりました、藍沢美優です。よろしくお願いします!」
 と、ばっとお辞儀をしてぱっと頭を上げた。
 すると、目の前の彼は顎に手を当てきょとんとして首をかしげていた。
「……レッスンでご一緒させていただく?」
 美優の返答に彼は明らかに困惑の表情を浮かべていた。
 いや、困惑してるのはこっちですよ。
 名乗ったんだから名乗り返されるのが普通だと思っていたから。
「はい……。ご一緒させていただきます、が……」
 美優も彼と同じように困った表情をして言葉を反芻したが、あれ、様子がおかしいぞ。と思う間もなく聞こえたのだ。
「ここ、本科のレッスン室だけど、階数間違えていませんか?」
 と、目の前の彼の声で。
 美優が喉を鳴らした疑問符のついた音は、多分声に出た。彼も「ん?」と喉を鳴らしてこちらを見ているからだ。相手は、自分の言葉に以外な反応を示したなと思っているのであろう。
 どうやらこの人は、美優のことを本科生だとは思っていないようだ。
 なら、確かめてみないと。
「ここ本科のレッスン室ですよね?」
「ですよ」
「なら間違えてませんけど」
 彼の言葉を反芻して失礼のないように応えながら、自分の正当性を訴える。
 しかし何科と間違えられたのだろうと考えるにつれて美優の表情が強張っていく。
 もしかして、本科生だって思われてない?
 外見が幼いから?
 いやいや、身長は160センチメートルあるんだぞ、15歳女子の中では高い方だし。
 服装?
 いや、今日はレッスン初日だから、春色のカーディガンに無地白ブラウス、ボトムは春色スカート。いつもより大人しいし、子どもっぽい恰好はしていないはず。
 なら、このナチュラルメイク? 前髪ぱっつん姫カットのロングヘア? 雰囲気?
 ぐるぐると思考を巡らせて混乱している美優に対して先客は、顎に手を当て何かを思案していた。
 が、美優と目線を外して呟いた。
「そっか、本科生か。てっきり基礎科生かと――」
 てっきり、きそかかと?
「はい?」
 お言葉を反芻して今度は脊髄反射でしっかり声に出た。
 美優の返事に触発されたのか、彼はくりっとした目を意地悪く細めた。
「うっかり者の基礎科生が、書類に書かれていた階数を間違えて、上がってきたのかと」
「はぁ?」
 こいつワザとだ! ワザと言ってる!!
 彼のどぎつい念押しに美優の勘が冴えわたったが、両手で口をふさいでここはぐっとこらえる。
 こんなスタートのスタートで『レッスン生に何か言われて噛みついた』なんて悪評がついたら、この先業界で生きていけない。
 脳裏をよぎったのは、声優デビュー後に付いて回るキレキャラのレッテルであり、ことあるごとにキレて下さい噛みついてくださいと要求される未来。
 こんなの、早速干される!! ダメだ、アンガーマネジメント! 
 理性的に未来まで分析できた自分に少しだけ驚きつつ、なるべく理性的にと考えながら口に当てている両手を離して相手と対峙する。
「……開校日、4月X日。本日ですよね? ここ、東京ボイスアクターズスクールのビル、3階。ここですよね? 14時クラス。今からですよね? 本科土曜14時クラスですよね? 全部プリントに書いてあり、覚えてきました」
 あの結果が届いて以来、あの書類に目を通さなかった日はなかった。
 何度も何度も見返して、本科に上がれた幸せをかみしめ、がんばろうと決意した。
 なのに、あぁ、なんであたしはなにをこんなに必死に『自分は本科生です』だなんて証明を繰り広げているんだろう。
 がっくり項垂れる美優。
 対して相手は、大層必死な目の前の少女を見て、
「確かにそうです。4月X日。ここは東京ボイスアクターズスクールのビル、3階。本科土曜14時クラスのレッスン場。今はー13時40分、です」
 と、余裕の表情で右手首にはめたゴツめの腕時計に目を落とした。
 13時40分。
 はっと振り返って扉の脇の掛け時計を見ると、確かに長針は水平になっている。
 レッスン開始20分前と言ったら、普段ならもう着替えて柔軟体操をしている時間だ。
 しくじった。
「でしたら、すべて合ってるので。改めまして、よろしくお願いします」
 これ以上この人を相手にしてはいけない。
 自分の中で警鐘が鳴ったので、美優は着替えが入ったトートバッグの肩ひもをぎゅっと握って会話を切り上げようと踵を返すが、
「あ、女子はどこで着替えるか知ってますか? あちらのロッカーの――」
「裏に着替えの空間があることも、荷物置くスペースがあることも、存じてオリマスヨ」
 ジュニアコースと階は違えど、レイアウトは同じなのだから。
 良い作り笑顔で振り返って言葉を返すが、相手は今度はきょとんとして見せた。
「……なにか?」
 美優が訝し気に伺うと、彼はまた顎に手を当て、はっと顔を上げた。
「あ、継続受講だったんですか。てっきり……」
「てっきり?」
「基礎科生が階を間違えたかと……」
「そのくだりはさっきもやりました! 何度ループする気ですか! あなたのボケは永久機関ですか!?」
 思わず声を荒げた美優は、はっと口をふさいだ。
 あきらか年長者に突っ込んでしまった。
 こんなスタートのスタートで『レッスン生のボケに突っ込んだ』なんて悪評、この先業界で生きていけない。
 脳裏をよぎったのは、声優デビュー後に付いて回るツッコミキャラのレッテルであり、ことあるごとにツッコんで下さいと要求される未来。
 こんなの、早速干される!!
 青ざめる美優に対し、相手は彼方を向いて肩を震わせている。笑いをこらえているのである。
 遊ばれてる! この人あたしで遊んでる!!  なぜ、初対面の受講生にこんなにいじられる理由がよくわからない。なにこれ、本科の洗礼?  ヤダもうなにこの人早く他の人来て。もう持たないかもしれない。
 と考えつつも、実際堪えきれてはいないのだが。
 堪えきれていないといえば相手も一緒だ。さっきから笑いが止まらないようでフルフルと肩を震わせ続けている。
 こういう失礼な手合いは無視するに限る。せっかく久々に大好きな元講師に会えたというのに。
 相手が彼方を向いている隙にロッカー裏に避難しようと美優は口をとがらせながら抜き足差し足で後ずさっていると、不意にドアがぎぃっと音を立てて開いた。
 美優と青年がハッとそちらを向くと、扉の向こうから顔を覗かせたのは清楚な印象の少女――さよりさんだった。
「おはようございます。本日からレッスンを受けます、北原と申します」
 さよりは彼に挨拶をすると、彼も小さく頭を下げる。
「おはようございます」
 返ってきた挨拶を聞いたさよりさんは軽く会釈し、美優の隣へと駆け寄ってきた。
「美優さん、お待たせ」
「あ、ううん。大丈夫ですよ」
 変に敬語になりつつ、美優の内心は複雑だ。
 レッスン室の壁は厚い。とはいえ、どこまでさよりさんに不毛なやり取りを聞かれていたのだろう。
「あの、さよりさん。会話、聞いてました?」
 美優が尋ねると、さよりさんは一瞬だけ小首をかしげた後、小さく頭を振った。
「聞いてないけど、どうしたの?」
「ううん、なんでも――」
 尋ねられて美優は答えながらもちらと彼の方を見たが、もう彼の姿はそこにはなかった。代わりにぱたんと閉まる扉の音と、レッスン室前ロビーに賑わいが増す音がする。
「あれ、あの人出てっちゃった?」
 さよりさんがひとりごとのようにつぶやくと、美優は安堵の深い息をついた。
 あの激しいやり取りを誰にも聞かれていなかった。それだけが救いだ。
 ひとまず安心と胸をなでおろした美優は、扉を見つめるさよりさんに声を掛ける。
「さよりさん、着替えしちゃいましょ? あの人なら、多分すぐ戻ってくるんじゃないですか?」
 時計を見れば、レッスン開始15分前であった。
 少しだけぶっきらぼうに言ってみたものの、彼はレッスン開始時間になっても部屋に入ってくることはなかった。