東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・2

 山手線沿線。
 新宿や池袋、渋谷や品川といった主要駅は人でごった返しているが、その一個先二個先の駅は比較的のどかな印象である。
 東京ボイスアクターズスクールのビルも、そんな主要駅から一つだけ駅を進んだところにある。
 美優は改札を抜けると、大通りの陸橋を渡り切って軽快に走っていた。首都の大動脈沿線の駅前ということもあって人通りはそれなりにあるが、眉のちょっと上で切りそろえられた前髪のおかげで視界は良好だ。
 大通りを超えればすぐ先に養成所のビルが見えて、彼女の鼓動はさらに跳ねる。
 今日から大手声優養成所・東京ボイスアクターズの本科生。
 どんな課題をやるんだろう。
 先生はどんな人なんだろう。
 新しいクラスメイトはどんな人たちなんだろう。
 期待と不安が交錯する。
 ちらりと腕時計を見れば、時間は13時20分。まだ急ぐほどの時間ではない。しかし彼女にはジュニアコース所属時からの日課があった。
 それは、誰よりも早くレッスン室に入るため。
 予め、アウェイな場所を自分のホームにするためである。
 誰よりも早くそこに居て、軽く掃除をするなりストレッチや発生練習で体を温めるなりしていれば、後からスタジオ入りするレッスン生と否応なく顔を合わせ挨拶を交わすことになる。するとそのうち、スタジオ入りした他のレッスン生も掃除と発声練習、ストレッチの輪に入ってくる。
 こうして美優は、ジュニアコースで友達を増やしていった。
 見た目によらず人見知りの気がある。今も少しの不安が美優の足を止めようとする。だから尚更弱い自分を律する必要があったし、何より胸に抱く『声優になる』という希望が彼女の背中を押していた。
 大通りを渡ると、そのビルはすぐ真横に聳え立っていて、美優はビル脇のテナント案内板を見上げた。
 二階から四階は東京ボイスアクターズスクールと、五階に養成所の母体組織である声優芸能事務所・東京ボイスアクターズの社名が書かれていた。以前、誰かから聞いた話によれば六階より上もの事務所のフロアらしい。
 三月まではこの建物の下の階でレッスンを受けていたが、今月からは――と、美優の黒々とした大きな瞳が見据える先は、主に本科が使用している三階。
 とその前に、美優には立ち寄る場所があった。
 五階にある、事務所のオフィスだ。
 前年度の担当講師から借りていた本を返すためだ。
 養成所生はめったに立ち入ることができないフロアではあったが、美優は前年度の担当講師から特別に許可を得ていた。
 初めての場所に足を踏み入れる緊張から、心臓が早鐘を打つ。それを落ち着かせるため、いつもより深呼吸を意識しながらビルの外階段を踏みしめてゆく。三階を通り越し、五階までも息切れなく上がってこれたのは、幼少のころから習っている弓道のおかげか、日頃の自主練で行っている発声のおかげか。とにかく日ごろから鍛えている肺活量には自信があった。
 曇りガラスの扉で立ち止まって深く息を吸いながら扉を開けると、明るい雰囲気のロビーの奥に扉を見つけた。
 その窓ガラスにはステッカーの切り抜き文字で、こう記されている。
 東京ボイスアクターズ。
 声優マネジメントオフィスの扉であり、まさに関係者しか入ることができない、夢の扉。
 美優はリノリウムの床で靴を脱ぎ、カーペットの床をそっと進んでゆく。この廊下を何人もの声優が行き交ったかを思うと、許可は得ているとはいえ、なおさら胸が高鳴った。
 自分もこの廊下を自由に行き来できるようになりたい。
 そう思い、いよいよ銀色のハンドルに手をかけながら深呼吸を三度繰り返し、すっと息を吸う。
 業界のあいさつはどこでも『おはようございます』だ。
 その後には所属クラスと名前を告げて、呼び出したい人の在室を聞く。用件は尋ねられたら答える。
 頭の中でしゃべる言葉をシミュレーションして、美優はドアを開けた。
「おはようございます」
 明るく甘やかな声が、オフィスいっぱいに響き渡る。
 その特徴的な声に、室内にいた人たち十人程度が一斉に美優を見たが、
「本科土曜14時クラス、藍沢美優です。ジュニアコース担当の伊坂講師はご在室でしょうか?」
 と、シミュレーションしていたことを全部言い終える。
 緊張でほほがあつい。
 するとだれが動き始める前に目当ての人物は、広い事務所のさらに奥の扉から飛び出してきた。
 前年度、美優が所属していたジュニアコースの担当講師であり、東京ボイスアクターズ所属のベテラン声優、伊坂時生さん。
「……藍沢……!」
 驚き一瞬前みたいな表情で、腕に抱いた書類やらファイルやらはてんで整っていない。まっすぐに美優を見つめ歩いてくるものだから、やや細身の体をあちこちにぶつけてやってきた。
「伊坂先生! おはようございます。お借りしていた本をお返しに来ました」
「……今なんて……なんてった?」
「? お借りしていた本を――」
「違う違う。所属クラス、なんてった……?」
 食い気味に問われたので、若干引き気味になってしまった。
「本科土曜14時クラス……ですけど」
「……本科!?」
「はい、おかげさまで、本科生です!」
 誇らし気に答えると、伊坂先生の表情は驚きから喜びに変わった。
「え、ええぇ! ま、まじか本科生か!!」
 キョトンとする美優を置き去りに、伊坂先生の表情は目まぐるしく変わる。そっかそっかと何度か繰り返し、今度はうんうんと何かを肯定的に納得したようにうなづいて、
「ジュニアコース初の快挙は、藍沢だったんだなぁー」
 と、教え子の飛躍に喜びをかみしめながら独り言ちた。
 その飛躍した教え子はいまいち話の状況がつかめずに戸惑っていたが、
「あの、先生。……初の快挙、とは?」
 と尋ねる。
 元教え子のまなざしにはっと現実に戻ってきた伊坂先生は、苦笑いを浮かべながらごめんごめんと美優の頭をポンポンと撫で。
「ジュニアコースは基本的に基礎科へ進級する。って教えたと思うんだけど、本科への飛び級の道も実はとざされてはいないんだ。けどな、ジュニアコースから基礎科進級は簡単でも、本科進級はほんっとにハードルが高くてな。今まで誰も成しえてなくって。で今年、スクール史上初めてジュニアコースから本科への飛び級が出たーっつって、事務所でも噂になってたんよ」
「……史上初、ですか?」
「そ。俺も担当レッスン生の審査結果は教えてもらってなくってな。だれだろなー。俺のクラスの誰かだったらいいなぁ、そうだったら誇らしいなぁ。って思ったわけ。そしたら、藍沢の声が聞こえて入ってくるなり『本科』って名乗るじゃん! 俺もううれしくってうれしくって!」
 よろこびとともに、そっかそっかと納得した伊坂先生は、
「藍沢はやる気も演技力もある。そのうえその特徴的な声は天性のものだ。養成所の事務局も事務所も、藍沢に期待してる。もちろん俺もな」  と、美優の肩をポンと叩いた。
 ――皆から期待されている。
 これ以上の嬉しい言葉はあるだろうか。
「……っ、はい。がんばります! ありがとうございます!」
 嬉しさのあまり満面の笑みを浮かべて美優は頭を下げる。と、腕にギュッと抱いていた本の存在を思い出した。
 それは新書サイズの本。東京ボイスアクターズ所属の大ベテラン声優が執筆した本で、自身の新人時代のエッセイから声優になるための心構えまで、内容盛りだくさんであった。
「先生。お約束の本です。お返しに来ました。ありがとうございました」
「律儀だなぁ。在籍中だったら返すのはいつでもいいって言ってたのに」
 美優の差し出した本を片眉を下げながら屈託ない笑顔で受け取った伊坂先生。
「あたしももっとじっくり借りてようかなって思ったんですけど、手元に置いておきたかったので自分で買っちゃいました。それに」
 と、めくった表紙裏には、声優界の大御所のサインが達筆な筆記で記されていた。
「この御本は先生にとって大切なものだと思ったから」
 自分の名を入れていただいたサイン本は、宝物に違いない。
「……本当に律儀だな」
 伊坂先生は今一度笑むと、差し出された本をそっと受け取った。
「ありがとな。がんばれよ。本科生。何かあったらいつでも……とはいかないけど、相談に乗るから」
 と、美優の頭をくしゃりと撫でた。
 それは伊坂講師がレッスン生をほめるときや励ますときにするしぐさ。
「はい、ありがとうございます! では、失礼します!」
「あぁ、がんばれよ! でも、がんばりすぎんなよ。楽しんでいけ」
 と、小部屋に戻っていく伊坂先生の姿を、
「はい!」
 と声を張って見送って、美優は思わず顔をほころばせる。
 伊坂先生も事務所も、事務所も、あたしに期待してくれてるんだ。
 ならばなおさら気を引き締めて、これからのレッスンに臨もう。
 決意を新たにして扉の前まで進んできた美優が、体質のあいさつをしようと踵を返したその時。
「あなた」
 と、声をかけられた。  自分が呼ばれた。そう思ったのだ。
「はい」
 振り向くと先にはスーツ姿の女性。その傍らには清楚な小花柄のワンピースに身を包んだ自分と同じ年頃の少女が立っていた。声をかけたのは女性のほう。おそらく事務所付きのマネージャーか、養成所担当の事務員だろう。少々困った表情だ。
「あなた、本科土曜14時所属のレッスン生ですか?」
「はい、本科土曜14時クラスの所属です」
 美優が答えると女性スタッフはかすかに表情を和らげて美優の近くへと歩み寄る。そして隣の少女の背をそっと押した。
「ちょうどよかった。今日初めてレッスンを受ける方なんですけど……」
 少女は小さくお辞儀をしてふわりと笑んだ。花のような可憐で清楚な笑顔は、もしかしたらテレビで見るアイドルよりもかわいいのかもしれない。
「北原さよりです。よろしくお願いします」
 少女――北原さんは丁寧にお辞儀をした。決して特徴的ではないが素直に響く声は正統派ヒロインそのものだ。
「あ、藍沢美優です。よろしくお願いします」
 美優も倣って頭を下げると、傍らの女性スタッフが美優を見、申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当は私の方でレッスン室まで案内するんですけど、この後も別のレッスン生さんの案内があって手が離せないんです。なので藍沢さん、北原さんの案内をお願いしても大丈夫ですか?」
「っ、はいっ!」
 名を呼ばれて美優は、思わず声を震わせて返事をした。
 スタッフに名前を呼ばれたということは、自分の顔を覚えてもらったということ。すなわち役者として名を売るための第一歩を踏めたということだ。
 そのうえ、自分を頼りにしてくれているなんて、後にも先にもこんなチャンスはないだろう。
 美優の意気揚々とした返事を聞いて、女性スタッフはにこやかに笑んで見せると事務所の入り口まで進み、扉をそっと開けた。
「レッスン室は三階です。では北原さん、藍沢さんもレッスンがんばってくださいね」
「はい、ありがとうございます。失礼します」
 北原さんがお辞儀をしてロビーに出たので美優も続いて、
「ありがとうございます。失礼しました」
 と頭を下げ挨拶をする。
 女性スタッフは今度は二人に笑顔で応えて静かに扉を閉めた。
 扉が閉まったのを確認して頭を上げた美優は、
「じゃぁ行きましょう」
 と、カーペット敷きの床を歩き出した。
「はい。お願いします」
 さよりも美優についてゆく。
 カーペットから一段下がったリノリウムの上に揃えた靴に足を通しながら、美優はさよりに声をかけた。
 聞きたいことがあったのだ。
「あの、北原さんは――」
 すると北原さんは一回ふるっと頭を振って美優の言葉を遮る。
「歳も近そうだし名前で呼んで? わたしは16歳の高校二年なの。美優さんは?」
 上品なパンプスに足を通した北原――さよりさんは、つま先を軽く小さくトントンとさせながら外階段に通じる扉に手をかけて開け放つ。
 すると舞い上がった桜の花びらふわりと、二人の髪を揺らした。
 青空の蒼に消える白の中、美優は答える。
「あたしは、15の高校一年です」
「あ、やっぱり歳近かった。同じくらいの年の子いるのかなって少し不安だったんだ」
 ぱっと安堵の笑顔を見せてさよりさんは嬉しそうに声を上げたので、美優もふと笑んで、彼女に代わって扉を閉めた。
「レッスン室って三階だったっけ?」
「うん。三階」
 さよりさんが先に階段を下り始めたので、美優も彼女の後を追った。そして、改めてさよりさんを伺う。
「さよりさんは今日初めてのレッスンなんですよね? 入所試験で本科合格したんですか?」
 今日がレッスン初日で本科生ということは、入所試験で本科合格を成しえないとあり得ないこと。それを本人の口から直接聞いてみたかったのだ。
 さよりさんは美優を振り返り、頷く。
「本科志望して、合格したの」
「えぇ! すごいです!」
 美優は思わず感嘆の声を上げた。
 実際の基礎科の入所審査も受けたことはないが、先の基礎科進級審査を受験してもわかる。
 本科入所生に求められる資質は、もっと高度で繊細で緻密だ。
 さよりさんはかるくはにかんで、
「ありがと」
 と謙遜するわけでもなく礼を言うと、
「そんなこと言ったら、美優さんだってジュニアコースから基礎科を飛び越えたんでしょ? 正直わたしがクラスで一番若いのかなって思ってたし、基礎科を飛び越えたのもわたしだけだと思ってた」
 とふんわりとした表情で三階フロアの扉に手をかけながら美優を見たさよりさんの表情は、笑顔。
「負けないわよ。がんばりましょうね」
 その柔らかな笑みとは裏腹の言葉の意味を、美優はまだ深く読み解けないでいた。読み解けないで無邪気に返事を返した。
「うん、あたしも負けない。一緒に頑張ろうね!」