東京ボイスアクターズ(の、たまご):第1章第一話・1

 東京ボイスアクターズ付属養成所、東京ボイスアクターズスクール。
 声優事務所大手である『東京ボイスアクターズ』が運営する声優養成所である。
 クラスは、初級コースの基礎科、中級コースの本科、上級コースの専科のほか、基礎科に入所資格のない中学生以下の志望者のための予科コース・ジュニアコースの4クラス。
 基礎科からの初年度の受講料は入所金合わせて三十万円、2年目以降は受講料のみの二十万円という、業界の養成所の中では受講料がリーズナブル。かつ、週一回三時間という短時間レッスンは、学生や社会人の声優志望者にとっては学びながら働きながら夢を追うことができるため、人気の声優養成所である。
 基本的に、基礎科、本科、専科と進級していくのが通例だが、入所審査時に優秀であると飛び級もできる。
 しかし、基礎科をパスして本科進級する受験生は、極わずかである。

 うららかな陽気と共に桜の花びらが舞う4月。
 大きな希望と緊張を胸に、声優を夢見る受講生たちの新しい1年間が始まった。
 ビルの外階段やビルの前では、レッスン生が夢と希望を胸に行き交っていた。
 東京ボイスアクターズスクールが入るビルは山手線沿線にある。一階はロビー、二階から四階までが養成所生のためのレッスンスタジオ。その上階に事務所を兼ね備えた事務所所有のビルである。
 各階ロビーの一角にパーテーションに仕切られた場所があった。日当たりのよいその一角にはソファーとガラスのテーブルが設置されおり、普段は養成所の講師や事務所のマネージャーなどが休憩を取ったり、書類を整理したり、打ち合わせをしたりなどするスペースとして使われている。
 本日、三階ロビーのソファーに深々と腰掛けて手にしている書類の束に目を通してるのは、明るいグリーンのパーカーにジーンズというとてもラフな出で立ちの青年。アシンメトリーなショートヘアに明るい色の大きめの瞳はどこかあどけない印象で、講師というにはあまりに年が若く、マネージャーというにはラフすぎる印象である。
 ペンを片手に眺めているのは養成所生の学籍簿のコピー。生年月日や住所電話番号などの個人情報は黒く塗りつぶされているが、芸歴や志望動機、自己PRなどは露わになっている。
 全員分で24枚。そのうち付箋が貼られたもの14枚。これをレッスンが始まるまでに目を通しておかなければならなかったため、一通り眺めてから書類をガラステーブルの上でトントンと揃えた。
 ふと時間が気になって腕時計を見る。午後0時45分を超えたところだ。
 そういえば。
 彼は手にしていた書類とペンをガラステーブルに置くと、自分の脇に置いていたコンビニ袋からスティックサラダとおにぎり、そしてレモンティーのペットボトルを取り出した。コンビニから帰ってきてから今まで、ずっと書類に目を通し切りで昼食を忘れていたのだ。
 スティックサラダを胃におさめてレモンティーを一口含むと、ペットボトルに日が当たるとオレンジ色の光が足元にまで落ちる。それを一瞥して、今度はレタスとハムのサンドイッチのパッケージをべりべりと開けて、袋から整った三角形を取り出した。
 かぶりつこうと口を開けた瞬間、自分の真横をふわりと何かが舞い上がっていった。
 桜の花びらだ。
 ふと外を見ると、昼下がりの春の風が窓の外の桜の花をそっと揺らす。ふわわわわと風に舞い上がる桜の花びらは、大通りを行く車に巻き上げられてどこかへと飛んで行くのが見えた。
 季節もいよいよ晩春である。
「お疲れ様、森永くん」
 名を呼ばれて彼――森永響がふと顔を上げると、声の主は見知った顔――高崎颯子。この事務所に勤務するマネージャーである。
 後ろで髪をまとめ、ビジネスメイクもスーツもばっちり決まっている高崎だったが、ガラステーブルに並んだ食べ物を見て、森永の状況を察する。
「お昼まだだったの? コーヒー淹れたんだけど、飲む?」
「いただきます」
 森永がレモンティのペットボトルをどかしてスペースを開けると、高崎はスマートな所作で森永の前にカップに入ったコーヒーを置いた。
 森永は小さく頭を下げるとカップを持ち上げてコーヒーを一口。香ばしさの中の微かな甘さに思わす息をつくと、緊張も少しやわらぐ。
「書類見てたら、楽しくなっちゃいまして……」
 森永はもう一回カップを傾けて、静かにガラステーブルに置いた。
 書類と聞いて高崎は、カップの向こう側に見えた書類を伺った。養成所生の学籍簿のコピーだ。
「スタジオ見学選考の資料ね」
「はい。まさか俺にお鉢が回ってくるとは思いませんでしたよ」
 と森永は自虐的に笑んだ。
 東京ボイスアクターズスクール本科カリキュラムの一つに、『スタジオ見学』がある。一クラスから4人程度を選抜し、収録スタジオの見学を行うものだ。
 選考基準は、『二十五歳以下』で『昨年度本科ではないレッスン生』。
 昨年度も本科在籍の場合、もう既にこのカリキュラムを受講している。故に、昨年度のクラスによってハンデができてしまうことを避けたかった事務所側の考えがあるのだろう。
 年齢に関しては何故この基準なのかは明確にはわからないが、おそらく二十五歳以上のレッスン生は事務所に所属できる確率が急激に狭まることに機縁している。
 24人のレッスン生のうち、審査対象は14人。
 兎にも角にも、選ばれたレッスン生はそのクラスにおいて『現時点で事務所が一目を置くレッスン生』と基準にされる。
 この、本科生にとって生きるか死ぬかのスタジオ見学選抜。選者は、担当講師とマネージャー、そしてスタジオ見学先で収録を行う最若手の声優の三人。
 今回、『東京ボイスアクターズ』所属の声優である森永響は、『スタジオ見学先で収録を行う最若手の声優』という大役に抜擢されたのだ。
 話を聞いたときは自分の耳を疑った。なんの期待もされていない自分に白羽の矢が立つとは。
 新人期間に役名のある当たり役に恵まれずにいたが、解雇寸前ギリギリでテレビアニメのレギュラーを射止めて『ランク制度』に突入した。
 滑り込み正規所属。
 なのに。どうして。
 しかし、これも勉強だと思って、諸手を挙げて、ではないが引き受けた。
「それで、気になる子はいた?」
 高崎に振られた森永は、うーんとうなりながら書類を手に取るとペラペラめくり、
「志望動機や自己PR、プロフィールだけではなんとも言えません。皆さんしっかり書いてますし、やる気も伝わってきます。なので実際レッスン生に会って声質や演技を見なきゃ、ですけど、気になるというか、面白い経歴の子なら数人いましたよ」
 そう言いながら森永は書類から数人分の学籍簿のコピーを抜き取った。
 まずテーブルに置いたのは女子レッスン生の学籍簿コピー。添付された写真の写るのは清楚系の美少女だったが、レッスン歴が他の学籍簿の誰より一際白い。
 他のレッスン生は、芸歴の一番上にほぼ『東京ボイスアクターズ基礎科』とレッスン歴が書かれているのだが、彼女の芸歴一覧は『なし』とだけ記入されていた。
 書類を覗き込んだ高崎は、
「あぁ、彼女ね」
 と声を上げて続ける。
「彼女、入所審査で本科に合格した子よ。私もあの日の入所審査でスタッフをやったんだけど、筆記満点、滑舌も演技も他の本科志望者とは頭二つは突き抜けてたわね。あれで演技経験もないんだからスタッフ全員が驚いてたわ」
「え、この子、あの本科入所審査を真っ新な状態で合格したって事ですか?」
 その事実に森永が思わず声を上げると、高崎もうんうん頷いて、
「天才現る! って事務所が騒ぎになったのはここだけの話ね」
 と、口の前で人差し指を立てた。
 東京ボイスアクターズスクールの基礎科入所審査は余程の失敗さえしなければ誰でも入所できる。しかし、本科入所は他養成所経験者でも合格が難しく、100人の入所審査を見たら本科合格は。二人いたらいい方と噂されていた。
 なのに彼女はレッスン未経験にもかかわらず審査員の想定を軽々超えて合格してきた。
 故に現時点で事務所が育成したいのは、まず彼女ー―北原さよりだろう。
「他には?」
「ほかはー、彼ですかね」
 高崎の催促に応じて森永が次に机上に置いたのは、厚い前髪と黒ぶち眼鏡の青年の学籍簿コピー。柔和な表情で口角が上がっている写真は、写真撮影にこなれている印象すらあったが。
 長野県の高校から現役で国立大に合格。高校時代はバスケットボール部に所属していたとか、生徒会長をしていたとか、大学入学と同時に養成所に所属したが、同時期に知り合いの伝手でフリーモデルをしているだとか、趣味は日本の城郭巡りで特に鯱に興味があるだとか。経歴が一人ずば抜けている。
「国立大の大学生。かつ読モって、勝ち組じゃないですか。なんで声優になろうと思ってるのかなって心配になりますけど、話のネタに尽きない感じはいいと思います。それに、職種は違えど芸能界にいるというアドバンテージは大きいですね」
 昨今の男性アイドル声優は大抵、このレッスン生のようなソフトで甘い雰囲気を醸し出し、知的で運動神経も兼ね備えるパターンが多い。これで演技もできて歌も歌えたら、彼――最上葉遠は人気声優になるであろう。
「女子人気が出そうな雰囲気はあるわね」
「えぇ。それと、女子人気と言ったら、彼もです」
 と、高崎の相槌に続いて森永が出したのは、硬派でさわやかそうな青年の写真が貼られた学籍簿の写し。短髪できりっとした表情は、誠実さをうかがわせる。
「こっちは現役体育大ですよ。しかも陸上でインターハイ出たことあるとか……この二人、学業とレッスンを両立させてるんですよね」
 すごい忍耐力。と感心しきりのため息を吐いた森永は彼――十時昴のプロフィールを眺めながら自分が養成所時代のことをふと思い出す。
 高校を出てすぐ叔父の経営する喫茶店兼住宅に転がり込んで、バイトしながら死に物狂いで養成所に通った日々が今でも昨日のように思い起こされる。クラスメイトには、やれ高校だ大学だとキラキラしながらレッスンを受ける学生もいて、彼らとの間に越えられない壁を感じて少し辟易としてしまったのも、まだ苦い思い出だ。
「うちの養成所は表向き『学業や会社との両立可能』とはしてるけど、両立できる人は限られるわね。大体が基礎科のうちに本業を選んで、ここへ通うことを辞めてしまう人が多い気がするわ」
 高崎の言うとおりだ。
 基礎科在籍時のことだが、講師にキツイダメ出しを喰らった受講生が次の週から来なくなったなんて言う話は珍しくなかった。彼らがその後、他の養成所に通い出したとか声優になったとかいう話はどこからも聞こえてこないということは、そういうことなのだろう。
「まぁ、学校会社云々というよりも、本人の心ひとつ。なのよね」
 苦笑いの末息をついた高崎の言葉が物語る。
 この世界は、人当たりが良くストイックな強心臓が、豪運を引き寄せる。その豪運を掴んだ者だけが、ひと握の夢を掴めるのだ。
「で、他にはいた? 気になる人」
 高崎に問われ森永は、そうですね――と続けたい気持ちを抑え、書類をささっとまとめると机の上でトントンと揃える。
「他の人たちは実際に会ってみてからじゃないですか?」
 と平静を装う。
「そうね。会ってみないとね」
 相槌を打った高崎の目線が他へ向いたタイミングで、森永はちらりと書類束の一番上の写真に目を落とすと、前髪ぱっつん姫カットの少女が、目力全開でこちらを見ていた。
 この少女、ジュニアコースからの飛び級である。
 名目上、このコースからの飛び級や事務所所属は可能ということになってはいる。だがしかし、東京ボイスアクターズスクール開講以来、その快挙を成し遂げた受講生がいるという話は聞いたことがない。
 通常は基礎科へ上がるはずの受講生が、本科に在籍しているのである。
 初の快挙を成し遂げたのだ。
 この、ぱっつん姫カットが。
 どこにでもいそうな、この少女が。
 藍沢美優。
 大層な経歴をお持ちで。
 さて、どんな実力を持ってるのかね、この子は。
 目を細め笑んだ森永は、ギシリとソファーを鳴らして立ち上がった。ソファーの上に放って置いたクリアファイルに学生簿の写しを入れる。それを足下の鞄にしまうと、ガラスのテーブルに置かれたコーヒーカップを手に取る。
 もうすっかりぬるくなったコーヒーを全て胃に流し込むと高崎が手を差し伸べたのが見える。コーヒーカップを受け取ってくれるらしい。
 森永は小さく頭を下げてカップを高崎に託してぐっと背筋を伸ばす。同じ体勢でいたせいか、身体中の筋肉が硬くなっていた。
 これは体をほぐしながら、少し声も出しておいた方がよさそうだ。
「高崎さん、今レッスン室って使えますか?」
   森永がレッスン室へ入るのと時同じく。
 藍沢美優は、駅の改札を通り抜けるなりレッスン場へ向けて走っていた。