東京ボイスアクターズ(の、たまご):プロローグ
声優。
映像作品や音声作品に、自分の姿を晒さずに声だけで演技をする俳優である。
まだテレビができる前の、ラジオが情報発信減だった時代。新劇俳優がラジオドラマで声で演技をしたことが起源とされる。
近年、声優の活躍の場は多岐にわたり、アニメやドラマCD、ラジオドラマなどの吹替、ラジオ出演、ナレーションは勿論、やバラエティ番組での顔出し出演、ミュージックシーンにも活動の場を広げている。
そんな華々しい世界を夢見るものは少なくないが、実際に、レッスンしたからと言って誰でも声優になれる世界ではなく、事務所に所属しデビューできる者は、ほんの一握。
さらに声優という仕事だけで生計を立てられる者は、ほんの一握中の、ごく一部。
茨の道。
彼ら『声優のたまご』はそれを百も承知で日々の鍛錬を積み、いつか孵る日を夢見ている。
藍沢美優の元に声優養成所から大きな封筒が届いたのは、菜の花が咲き始めた三月の初めのこと。きれいに水拭きされたダイニングテーブルの上、オレンジ色の夕陽に照らされて他の家族宛の郵便物と一緒に揃えて置いてあった。
中学三年生の彼女も声優養成所・東京ボイスアクターズスクールでレッスンを受けている声優のたまごの一人である。
と言っても、ほとんどの声優養成所の入所資格は高校生以上。美優の通う養成所も例外ではなかった。なので彼女は養成所付属のジュニアコースと呼ばれる予備クラスに所属して鍛錬を積んでいる。
先週のレッスンの終わりに担当講師から、こう言い渡された。
中学3年で進級審査を受験した者には来年度のクラス配属の知らせと受講手続きの書類が自宅に届くので、必ず確認。書類を見てこれからもレッスンを続ける者は事項を確認の上、手続きするように。
進級審査とは養成所の基礎科以上のレッスンの受講資格を得る審査。これを受けらるのは、この先も『役者としてやっていきたい』と志願した者だけ。
声優志望の美優も当然進級審査に挑んだ。審査員の大人たちは終始真顔だったけど、審査自体はとても楽しかったし手ごたえもあった。
合格していれば、晴れて養成所の正規レッスン生として、声優への道の第一歩を踏み出せるのだ。
この審査には美優のほか多数のクラスメイトも受験していて、仲のいい子たちと、基礎科に上がっても同じクラスだといいね。などと笑い合ったことを思い出す。
美優はダイニングテーブルに置いてあるペン立てからハサミを抜き取ると、封筒の頭に刃を当てた。緊張で手が震える。高鳴る胸もうるさかった。だけど、中の書類まで切ってしまわないように封筒を慎重に開封し、すべての書類をテーブルに出して、一番前の配属先のご案内と印刷された書類の活字に目を落とした。
東京ボイスアスアクターズスクール
ジュニアコース 土曜クラス 藍沢美優
次年度 本科土曜14時クラス に配属が決まりました。
「え」
思わず声が出た。
誰もいない家の中。改めて誰もいないことを確かめてから、美優は書類に目を落とした。
本科?
基礎科じゃなくて?
一瞬、自分が読み間違えてるんじゃないだろうかと思った。二度見三度見する。
演技の楽しさを知ったジュニアコースのレッスン生が進級審査に合格すると、翌年度に基礎科で本格的な演劇の基礎を学ぶことが通例だ。
なのにいきなり本科だなんて。
もう一度、目を通す。声にも出して読んでみる。見間違いかもしれないから。
「……『ジュニアコース、どようクラス、あいざわみゆう。じねんど、ほんか、どよう、じゅうよじ、クラス、に、はいぞくがきまりました』」
耳から聞いた音に間違いはない。骨伝導で聞こえる甘く高い声も、部屋に響き渡った声も、その報が間違いではないことを伝えている。
基礎科を飛ばして本科に行くジュニアコースの人もいるなんて話は、今まで聞いたこともない。だけど、書類の上部に割り印が、下部には養成所の代表取締役の氏名の横に角印も捺印されている。
これは、この紙面に記された記述に一切の相違はないということである。
「……信じらんない……!」
自分に基礎が備わっているかと問われれば、必ずしもそうは言えない。
だけどまさか、基礎科を飛び級できたなんて。
本科所属でも基礎科所属でも所属審査を通過しなければ声優にはなれないが、本科は本格的に演技の勉強ができるのだ。
「これって、『しろねこさん』に近づいてるってこと……だよね」
純粋にうれしくて、美優は思わず書類をぎゅっと抱きしめる。自分の腕の中で紙がぐしゃっと音を立てたが、気にしてなんかいられなかった。
基礎科を飛び級できたという事は、技術的には『あの人』のいる場所にぐんと近づいたということ。
美優には大きな夢がある。
自分も『あの人』のような声優になること。
そしていつか『あの人』の隣に立つこと。
誰かの心に寄り添い、支え、生きる喜びを与えられる表現者になること――。
まだ春の足音さえ遠いけど。
夢を追う少女の心に暖かな風が吹き始めた。