one:


 声を聞いたのは、下校中だった。
 その声を聞くまで、気分は最悪だった。むしろ最低という方が近かった。感情が、すべて低い所へ落ちてしまった感じだった。
 理由、といえば、ひとつしかない。あの人、だった。真栖。彼氏、だった人。
 もうすぐ付き合って2年だから、何が、ってわけではないが、楽しみにしていたのだ。その日になれば、それだけ長い間一緒にいたんだという、証がもらえる気がした。もちろん去年も嬉しかったけれど、だんだん増えていくたびにそれは嬉しくなるのだ。
 それなのに、どういうわけだ。いきなり、実は他に好きな奴がいる、とか、実は付き合ってたんだ、とか、さすがに酷すぎると思う。あんまりだ。
 別に、好きな人が出来ただけなら、許す。もっと前にちゃんと話してきたなら、きちんと別れた。けど、あの人は黙っていた。その子にも私のことを黙って、付き合ってた。どういうことだこれは。
 あの人は一体、他人の気持ちをどう思っていたんだろう。私はあの人にとって彼女のはずで。2年前にあの人が私に告白して付き合って。


   『香嶋』
   そう私を呼んだのが、きっと最後の声。
   深瑞 、とは、呼んでくれなかった。昔、まだ私達がクラスメートだった頃の呼び方。
   遠回しな言葉。
   『バイバイ、早渡君』
   こんな奴を私は好きだったんだな、と他人事のように思った。
   どこかで、情けなく感じた。


 そうして、2年間。
 ずっとあの人の気持ちを信じてた、と言えば嘘になる。確かに信じてはいた。けれど不安にかられたことはある。
 この人と私は、いつまで一緒にいられるのだろう。いつまで、この感情を抱いていられるのだろう。あの人も、私も。
 けれどそんな感情は、浮かび上がるたびに消えてきた。いつも、あの人は優しかったから。
 それでも、今回は、あの人は私達を傷つけた。私だけでなく、あの子も欺いたことが許せなかった。きっとあの子はあの人を信じて、何も疑わずにいたんだろうに。
 話を聞いた後は、あまり覚えていない。放課後呼び出されてうきうきしていたのにあんな話だったから、もう頭の中はからっぽだった。何で、どうして、と、答えを出そうともしないまま、ただ問い続けた。あの人は、あの後どうしただろう。ぼうっとしながら、最悪な終わり方だと思った。
 そうして。
 土手を歩いていた時に、その声は聞こえたのだった。

 誰かを呼ぶ声。
 否、それは誰かではなくて。
「ミスイ――」
 ふわりと、そのひとは現れた。出現した、というのが正しい。まるで霧が形になるかのように。
 そうして、そこには薄い藍色の布を纏った人がいた。瞳も髪も同じような色をした、男の人。私が知っている男の人なんかとは、全然違う感じがする。そういう雰囲気を、このひとは持っている。
「ミスイ」
 その声の呼び方は、少し、発音が違う。真栖が私を呼んでいたようなのとは違う聞こえ方だった。
 けれど、それは確かに私の名前。
「あなたを、探していた」
 静かな―あるいは冷えた―目をしたそのひとは、何度も名前を呼んだくせに、私が返事をしなくても本人だとわかっているように続ける。
「私、を・・・」
 どこか現実味がないその光景は、けれど確かに現実だった。そのひとも私もちゃんとここにいるし、声もきちんと届いている。私が呆然としている所為で、現実味がないのだ。
「私の世界に、来てはくれないか」
 それが何を意味するのかはわからなかった。けれど彼はきっと異世界の人で、私を探すためにここに来たんだろうな、と思った。
 理由もなく。
 彼が現れた時点で、もう既にここの世界ではありえないことだったのだから、その言葉の意味を理解するのはそう難しいことではなかった。
 多分、頭がすごく冷めてたんだと思う。
「おまえが必要だ」
 そんな言葉を、私は真栖に求めていた。
 一度も、聞けなかったけれど。
「はい」
 ただ一言、答えた。
 それだけでわかると思った。
「ミスイ」
 その不思議な声で、心地の良い声で、そのひとはもう一度私の名を呼ぶ。
 手を伸ばす。

 私はその手をとった。



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