春の祭りまで、もうあまり時間はなかった。
 サナは相変わらず、全く姿が見えない。人形劇はどうなるのかと、一部では心配されていた。
 しかし、サナは特に有名人というわけでもなく、カナヤが得られる情報は少ない。
 人形は完成していたけれど、主になる少女を待ち続けるだけだった。まだ服も着ておらず、命はかけらも吹き込まれていない。壁に凭れたままの姿は、見るたびにサナを思い出させ、カナヤを心配させた。
 祭りまで、あと一週間となった時。
 カナヤの家の扉が叩かれた。


 そこにいたのは、陽光の色の髪を持つ少女。
 最後に見た時と同じ――けれど、少しだけやつれたようにも見えた。
「サナ・・・」
「こんにちは」
 驚いた顔は安堵に変わり、そしてまた驚きに変わった。
 サナが突然現れたことに驚き、無事であったことに安心し・・・そして、再度訪れた感情は、呟きとなってこぼれ落ちた。
「どうして・・・」
「声が、戻ったの」
 サナは、まるで何でもないことのように言う。カナヤはますます驚いたままだ。疑うわけではなく、不思議に思い、どうして、と今度は心の中で呟く。
 そして、左腕に巻かれた包帯に目が止まった。
「怪我は・・・」
「全然平気・・・って言ったら、嘘になるかもしれないわね」
 胸の奥の感情を押し殺したような顔で、笑う。
「この腕は、もう、動かないわ」
 その言葉に、一瞬、呼吸が止まる。
 また、何でもないことのように、サナは言った。
「賊に、やられたの。もう一生動かないって。死んでしまったの、この腕は」
 サナは、包帯に包まれた腕を、生きた手でぎゅっと握った。
 カナヤは俯いて黙ったままだった。
 沈黙が訪れる。
 サナは、何を考えているのかわからない。表情はその顔に無かった。一方でカナヤは、胸の中に広がった痛みと・・・闘っていた。
 季節の移りを知らせる風が、二人の間をすり抜ける。
「私・・・ね、歌おうと、思うの」
 唐突に、サナが言った。
 まるで、何かを振り払って、覚悟を決めたかのように。
 一瞬揺れた瞳は、次に、まっすぐにカナヤを射た。
「私の声が、やっと、戻ってきたから。だから、人形劇で、歌を歌おうと思うの」
 精一杯、言葉を紡ぐ。
 それは、この事件を悲しいものと考えまいとしているように見えた。
「私の腕はもう使えないけれど・・・でも、ずっとなくしていた声が、戻ってきたから。だから、声を使おうと思うの。その為に、怪我が治るまで、練習もしてたの・・・」
 一度、声が沈む。
「だから・・・お願いが、あるの」
 サナが、小さな声で言う。
 顔をあげたカナヤの耳に、そっと呟く。そして、駄目?というように僅かに首をかしげた。
 その様子を見ていられなくて、思わず、カナヤはサナを抱きしめた。悲しくて、悔しくて、しょうがなかった。
 声が戻ってきたことで、彼女の夢が戻ってきたわけじゃない。歌うことで、彼女の今までの傷が癒えるわけでもない。瞳も、両親も、二度と戻っては来ない。
 自分は、指を失っただけで沈んでいたのに。
 それなのに、どうしてそんな風にしていられるのだろう。
 どうして、そんなに強いのだろう。
 サナの顔は、見えない。どんな表情をしているのか、予想もつかない。けれど。
「ごめん・・・」
 胸の中は、後悔でいっぱいだった。泣きたくも、あった。
「ごめん」
 呆然としたサナの顔を目にしないまま、カナヤはただ呟いていた。


 祭りまで、あと3日。サナが姿を見せてから、カナヤの周囲は慌しくなっていた。
 今年の人形劇はやらないかもしれないと危ぶまれていたため、準備をほとんどしていなかったのだ。そして、サナの“お願い”のこともある。
「急に訪ねて来て、悪かったな」
 そんな中、カナヤのもとへ来た街の女性は、入って来るなりそう言った。だったら来るな、とはカナヤは言わない。よほど大切な用事なのだろう。
「何?」
「サナのこと」
 淡々と、その女性は言う。
「あの子の声が戻った理由・・・知ってる?」
「いや」
 ずっと疑問ではあったが、忙しさでそんなことを気にしている場合ではなかった。
 話せ、と目で訴えると、その女性は淡々と語りだした。
「あの子が賊に襲われた時、もう一人女の子がいたっていうのは聞いた?」
「ああ」
 それは、噂で耳にした。
「じゃあ、あの子がその女の子を庇って怪我をした・・・ってことは知らないか」
「知らないな」
 そこまでの情報は手に入らなかった。・・・もしかしたら、手に入れようとすれば、出来たのかもしれないけれど。
 女性は同じ調子で話し続ける。
「あの子は多分、前に賊に襲われた時のことと、今回のことを重ねているんだ。前の事件の時、声を失った理由は、ショックだけじゃないんだと思う。おそらく、家族を守れなかったのが悔しかった」
「たった10歳の子供が?」
 カナヤは思わず訊き返す。
「そうだよ。たった10歳、って言うけど、サナはあの時、随分としっかりとした子だった。それに、家族の中で生き残ったのは自分だけ。責任がないとわかっていても・・・自分を責めるだろう?」
 返す言葉は、無かった。
「だから、今回、あの女の子を守れたことが嬉しかったんだろう。自分のように、何かを失うこともなく、生き残ることができて。だから、救われた気持ちになったんじゃないかな」
 ・・・人の気持ちの奥底なんて、わからないけれど。
「腕を失っても・・・か?」
「ああ」
 女性は頷いた。
「あの事件で声を失って、ずっと傷にしていたあの子にとっては、助けられたことが本当に嬉しかったんじゃないかな。腕を失くしたことは――また、傷になるのかもしれないけど」
 彼女は、またそうやって悲しみを増やしていくのか。
 ひとを救っても、またどこかに傷を負って。
 そこまで話して家を出ようとした女性に、カナヤは言う。
「・・・どうして、それを俺に話した」
「5年前の時――あの子に人形を勧めたのは、私」
 意図の見えないことを、彼女は言う。
「どうしてかわかる?」
 カナヤは首を振った。
 女性は悲しそうに微笑む。
「貴方なら・・・声と瞳を失ったサナの痛みを、わかってあげられると思った。右腕を失った、貴方なら」
 その言葉に、息を呑む。
 ――自分は。
 ――サナのことを。
「・・・俺は」
 悔しげに、呟く。
「わからない・・・どうしたらいいのか、わからない」
 痛みに気付いてやれなくて。癒す術も知らなくて。
 だけど、あの少女はまた立ち上がろうとして。
 どうしたらいいのだろう。
 どうしたら、あの少女を本当に救えるのだろう。
 悲しい瞳をした、あの子を。
「――そうだな」
 女性は、扉に手をかけたまま振り向いて、言った。
「私にだって、わからない。だから貴方に任せた。結局、私達も縋っていたんだよ。貴方に。あの子のことを、わかってやれなかったから」
 自分の非力さを詫びるように、彼女は言う。
「けど、私が、今だから言えることは――あの子は、独りなんだ」
 その言葉が、胸の中で反射するように響く。
「家族を失って――頼るものを失くして、それから、ずっとひとりなんだ。だから、また一人で立ち上がる。・・・見て、いられないくらいに」
 わかっているのだ、この女性は。自分では、どうにも出来ないこと。
 彼女の傷を癒すことは、難しいということ。
「あの子は、ひとに頼るということを知らない。一人で生きていこうとする。だから、誰かが力になってやらなきゃいけない。でも――それは、誰でもいいってわけじゃない」
 言葉は、そこで途切れる。
「俺は・・・」
 呟きは、静かな部屋に吸い込まれて消える。
 握りしめた手は、悔しさと、どうにもならない苛立ちと。
「何が出来る・・・?」
 途方に暮れている。
 女性は扉を開けると、去り際に一言、言った。
「さあ・・・それは、貴方が見つけることだ」




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