「 「私と同じ名前ね」 儚くて消えそうだったあの笑顔を憶えている。 夜に咲く花 冷たい道を歩く。 風はない。けれど空気は何処までも冴え渡っている。 地上に近い空の一部は、陽と共に朱に染まり始めている。振り返れば、東の方は既に薄い紺碧だ。あと少しで、空は全て彼女の瞳と同じ色になるだろう。いつもならその頃にこの道を歩いているはずだった。 少し早い彼女の呼び出しを不思議に思いつつも、歩みを速める。きっと今日も待ち焦がれているだろう。また、遅いと言われるかもしれない。 こんな砂漠には不似合いの、豪華で思い門を開ける。鈍い音が響くが、この時間なら、今日はさほど気にしなくていい。 真っ直ぐに続くレンガの道へは進まず、森のように茂った木々の中へ逸れる。慣れた葉を踏みしめて、いつもの場所へ向かう。小さな館の壁が、茶色く茂った葉の合間から見える。 その前に佇む、一人の女性。 「 空を眺めていた彼女は、俺の声を聞くと、少女のような表情を浮かべ、こちらに寄ってくる。 「久遠」 すぐさま俺の手をつかむと、塀の傍にある木の所まで引っ張っていく。 その姿はまるで、自分だけ時間を止めてしまった少女。 「見て」 近くまで来ると、前回来た時にはなかったはずのその木を抱くかのように、朔夜は頬を寄せる。 「父様が異国から持ってきた木なの。桜、というのよ。久遠にすぐ見せたくて」 持ってきた、と言うよりも、持ってこさせたのだろう。朔夜の家は、見ての通りの金持ちだ。そんなことくらい容易いのだろう。 しかし、こんな木を砂漠に持ってくるとは。 砂ばかりのこの土地では、俺の背後に茂っている木を除いては、植物などほとんど育たない。 以前、これと同じ桜の木を、別の大陸で見たことがある。その場所独特の花だと言っていた。 けれど、こことその地では違いすぎる。 朔夜はそんなことは知らないように―本当に知らないのだろう―愛おしげに木の幹をなでる。 よく見れば、この木の根元だけ土が違う。持ってきたばかりのはずなのに、つぼみも開きそうだ。どうしてもこの地で咲かせようと、手を尽くしているのだろう。 けれど、どうしようもない。きっとすぐに枯れてしまうだろう。この地は寒い。俺が桜を見た場所は暖かかったはずだ。 「桜の花には、いろいろな名前があるのよ。 いつものように、朔夜はひとりで話し続ける。 どこか、現実を見ていないような様で。自分だけの世界にいるようで。 その理由を、俺は知っている。 けれど、言わない。 「そう、 小さく微笑む。 「私と同じ名前ね」 いつの間にか、空の色が深くなっている。 この場所は、まるで時間をゆっくりと感じさせるようだ。 けれど、確実に時は流れている。残りの時間は減っている。 「それから・・・」 「 知っている名を唇に乗せる。 朔夜はゆっくりと俺を見て、また桜の木を眺める。 「そう。この花は夜にも咲くんですって」 花が開くかも判らないのに、その瞳は僅かな期待で満ちていた。 「見てみたいわ」 ゆっくりと、朔夜を後ろから抱きしめる。 「朔夜。そんな薄着をしていたら、風邪をひく」 知っているのに。 「大丈夫よ」 そっと俺の腕に触れる。目を閉じるのがわかった。 「朔夜」 この体は、すぐに消えてしまうのかもしれない。 はたはたと音がして、窓から白い鳥が舞い降りてくる。俺が手をのばすと、いつものようにその鳥はとまる。 また、朔夜の呼び出しだ。気まぐれな彼女のそれは、あの木を見せられた後から、頻繁に来るようになった。 鳥の片足に小さな紐を二本結ぶと、また窓の外へと放つ。いつからか続く、朔夜と俺の会い方。 誰も知らない。けれどきっと誰かが気付いている。 朔夜は、決して強く求めたりはしない。 俺を自分から抱きしめたり、何かを望んだりしない。 いつもどこか違う世界を見ているようで、ふわふわと漂っているようで。 そのくせ、こうやって気まぐれに俺を呼ぶ。僅かにわがままを含んで。 どちらも、誰もが、知っているけれど口にしない。それは、俺達の暗黙の了解のようであり、俺が決めたことであり、朔夜が決めたことだ。 これに終止符が打たれることは、ない。誰もそれを崩そうとはせず、見ぬふりをして、やがて消える時を待つ。 いつかは知れぬ時。けれど、その身の近くに感じている、遠くない日。 この曖昧な時間は、関係は、その時まで続く。 ただ一つ確かな、想いだけを置き去りにして。 「朔夜」 いつものように、彼女は俺の声に振り返る。ふわふわとした視線で。絶やさぬ微笑で。 彼女の想いは確かに知っているのに、彼女が何を思い、何を見ているのかなどわからない。受け取ったのは想いだけ。それ以来、彼女は淵の近くに行ったまま、帰って来ない。 今日も幼い少女のような女性は、くるくると舞い踊るように駆け寄ってくる。 そうして、俺の胸に顔をうずめた。 「朔夜?」 名を呼んでも、彼女はしっかりと俺の服を掴んだままだ。さして強くない力で、けれど精一杯握って放さない。 体が小さく震えていることに、彼女はきっと気付いていない。 思い切り抱きしめると、朔夜はまるで小さな子供のようだった。 「久遠」 その声もまた体と同じで。けれどやはり彼女は気付いていなくて。 彼女自身は、それ、を知り、受け入れているというのに、押し寄せるモノの大きさに、器は壊れそうになっている。 押し寄せるモノと同じく、溢れ出る 「大好きよ」 思わず、腕に力を込める。言葉を紡ぐことは、ない。津波が、互いにぶつかり合うようだった。 「朔夜」 淵の傍にいた少女が振り返る。 そうして、愛しいひとの腕に抱かれて。 「久遠」 最後の夜は、俺達のもとにだけ雨が降った。 夜明けと共に、俺はそこを去った。 愛しく、美しいひとの亡骸を、そこに残して。 皆が知っていた。 けれど誰も知らなかった。 葬儀も終わり、彼女は本当に異界のひととなった。 久しぶりに歩くこの道は、昼間だというのに、やけに静かだ。 風は少し暖かくなっているのに、張り詰めた空気はどこか冷たい。 朔夜は、あまりにも全てを知りすぎていた。 自身の死がとても近くにあるということも、それを避けられないということも。 彼女の両親が、それを告げずにいたことも。 いくらこっそり侵入したとはいえ、俺が朔夜と会っていることを知らなかったはずがない。それは、他の住人にしても同じだ。一人娘の最期だからと、好きなようにさせていたのだろう。 俺が、彼女を愛していたことも。 彼女もまた、俺を好いていた。けれど彼女はそれを一度告げたきり、無邪気な少女になってしまった。 すべてを知りすぎていたから。 その知ったものの多さに、彼女は崩れそうになっていた。死を受け入れていても、自分の周囲に、その感情に、耐えられなかった。あまりに優しく自分を受け止める世界に。 だから彼女は、偽り続けた。周囲に応えるかのように。演じ続けていた。静かに生きる少女の姿を。ただ一つの愛しさをわがままに変えて、届けさせた。 そうして、あの夜。 氷のように凍らせた心が、溶けていった。 彼女は死を間近に、すぐ隣に感じていた。 恐かったのではない。 怖れていたのではない。 ただ、愛しさを届けたかっただけ。愛しさをその身に受けてから、逝きたかっただけ。 静かな部屋で眠った彼女は、美しかった。 小さく俺の名前を呟いて、それをこの世の最後の言葉にして。 はらり、と薄桃色が風に舞う。 そこは、朔夜の家の横。色を身に纏った桜の木があった。 主はもういないというのに、その腕にたくさんの花びらを飾り、それを風に委ねていた。 桜吹雪。 彼女が決して見ることのなかった、彼女と同じ名を持つ花。 溶けた心の水は、明くる朝には消えてしまった。 自らを、桜の花の糧とするように。 跡形もなく。 けれど、愛しさを残して。 その花が散っても、俺が彼女を忘れることは、決して、ない――― END |