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Snow Destiny
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SNOW DESTINY vol.3「A new wind −生まれたての風」( (c)不知火さん ) (テキスト版)
 冬。すべてが色褪せ、白と黒ばかりが目に鮮やかで。
 良く晴れた空は、鮮やかというよりも嘘っぽい。
 冬。
 そう言われて、俺は。
 まっ先に君を、思い出す。
 君の、その悲しげな瞳を。
 笑顔を。
 涙を。

 俺が、梨花に対して恋愛感情を持っていなかったと言ったら、おそらく俺達二人を知る誰もが「嘘だ」と言うだろう。
 言っても誰も信じないから、俺達も否定はしなかったし。
 でも、俺達は、そんな甘い関係じゃなかった。
 あくまで、仲の良い友人だった。現に梨花には…

「ねぇ。悟。今度さ、紹介したい人がいるんだけど」
 そう言われたのは、十一月の第二週の金曜日。試験二週間前。
 真面目なやつなら勉強を始める頃。
「何? それ」
「だからさ。明日と明後日、どっちか空いてる?」
「両方空いてるけど」
 梨花は、にまっと笑って「じゃ、後で」と、俺の席から去って行った。
 なんなんだ、と、正直戸惑うが、梨花はああいうやつだから。
 今に始まった事じゃない。
 隣の席のやつが、「なんだ? デートの約束か?」とか的外れな冷やかしを言うが、全く無視する。
 軽口ひとつ、噂ひとつ、全てを否定しても、また何処からかそういう話になる。
 無駄な努力は嫌いだった。

 現代社会の退屈な授業中。
 梨花から手紙がまわってきた。
 こういう事をするから誤解されるんじゃないか、と思いもするが、梨花だからしょうがない。
 とりあえず、ネット社会について熱弁を振う中年教師の目を盗んで、綺麗に折り畳まれた紙片を開く。

『さっきはゴメンネ。実は、紹介したい人ってのはね、私のカレシなの。明日会わせるから、一日空けといてね。池袋の東口のいつものとこにa.m.9:00ね。遅刻厳禁!』

 梨花に好きな男がいるのは、前から知っていた。相談にものっていた。
 だから、唯単に、上手くいったんだなと思っただけだった。
 意外なほどに。

 そして土曜日。
 もちろん、時間通りぴったりに待ち合わせ場所に到着し、梨花とその彼氏を待つ。
 『遅刻厳禁』と自分で言いつつ、遅れてくるのはいつも梨花の方だった。
「ごっめーん。待たせた? ユウが遅れちゃってさぁ」
 笑って小走りに駆けてくる梨花の隣には、背の高い、わりとがっしりした感じの男が立っていた。
 思わず、自分を顧みる。
 お世辞にも高いとは言えない身長。あまり外で遊ばないせいか、なま白い肌。がりがりの手足。童顔の顔。エトセトラ、エトセトラ。
 まるっきり正反対だ。
 つまり、俺達が友人である理由は、お互いに自分の好みと正反対だからなのだ。
「あのね。こっちが紙谷 裕。私の新しいカレシ。んで。これが瀬田 悟。私のダチね」
 梨花が男二人の間に立って、紹介する。俺はよろしくと軽く頭をさげ、相手も同じように返して来た。
「それでね。悟には、もうひとり、紹介したい人がいるんだ」
 言った梨花の瞳は、いたずらっぽく輝く。
 何か企んでいるのは事実だが、それが何かわからない。
「紹介したい人って?」
「ここから、ちょーっと移動しなきゃいけないんだ。ユウが車運転するから、一緒に来て」
 強引に俺の腕をひっぱり、梨花はずんずん進んでいった。
 路上駐車してあった黒のワゴンに乗り込む。
 俺はバックシートに詰め込まれ、梨花は助手席、もちろん紙谷さんがハンドルを握った。すぐにエンジンの振動を感じる。

「で?」
「聞いても驚かないでよ、悟。私が会わせたいのはね、あんたのファンの女の子よ」
 頭が真っ白になる。
「ファンって……」
「だーかーらー。詩のよ、詩の」
「ああ。梨花のサイトに載せてるやつか」
 梨花がやっと気付いたのかと、顔にありありと浮かべた。
 ずいぶん前に、少しずつ書き溜めていた詩のノートを梨花に見られ、それ以来、何かと言うと詩を書かされるハメになった。
 梨花はそれを自分のサイトに載せている。俺もたまに見るが、作りはなかなかセンス良い。
「にしても、なんでそのファンの人と会わなきゃいけないんだ?」
「それは……。 それは、悟の趣味にぴったりだからに決まってるじゃない。それとも何? 初対面の子はイヤだとか言うの?」
「いや。別にかまやしないけどさ」
「なら、素直に喜びなさいよ」
 それっきり、これから会う人物については何も聞けず。着くまでの時間は、他愛も無い世間話をずっとしていた。

「ここは…。病院?」
「そう、病院。ここが目的地」
 車を降りて、その白い建物を見上げる。
 まさか病院に連れて来られるとは、思いもしなかった。ユウ(車内でそう呼ぶように言われた)は駐車場に車を停めに行った。
「ユウは病室分かってるから、先行こ」
「ああ」
 広々とした玄関前の広場を通り抜け、病院のロビーに入る。
 そこで梨花が見舞い客用のバッジをもらい、まっすぐにエレベーターへ向かう。
 足繁く通っているのだろう、梨花の行動には、少しの滞りも無かった。

 ほどなくして、梨花は簡素なドアの前で立ち止まった。ノックして声をかける。
「どうぞ」
 中から、思ったよりも元気な声が返って来た。その声に応え、梨花がドアを開いた。
 そこには、女の子がベットに上半身だけ起こして座っていた。髪は黒く長く、色は白い。そのコントラストに、見てるこっちがぎくっとした。
「はじめまして」
 ドアの外で聞いた声と同じ声が、彼女の口から滑り出た。幾分か、おずおずとしたものだったが。
「はじめまして」
 こっちも挨拶を返して、そして…。続かない。
「なーに、お見合いしちゃってんのよ。ほらほら、ここ座る!」
「うわ」
 梨花が俺の背中を押して、無理矢理ベットの隣の椅子に座らせた。
「さゆちゃん、御所望のモノと、これはみかんね。好きっしょ?」
「うん。好き。ありがと、梨花ちゃん」
 モノってトコで俺を指差してから、それまで持っていた紙袋を差し出した。嬉しそうに彼女は受け取る。
「悟。こちらが本村 沙百合さん。あんたのファン第一号。おっけい?じゃ、わたしは出てくから。さゆちゃん、がんばねー」
 言うや否や、梨花は俺達がとめる間もなく、病室から出て行った。
 再び、破り難い沈黙がながれる。

「「あの」」
「「あっ」」
「「そちらから、どうぞ」」
 ここまで揃うのも、珍しいんじゃないだろうか。顔を見合わせて、笑みがこぼれる。
「私、梨花ちゃんのHPで、瀬田さんの詩を読んで。それで、梨花ちゃんにせがんだんです。瀬田さんに会わせてくれって。瀬田さんの詩、暖かくて好きなんですよ」
「それは、ありがとう。すごく嬉しいけど、病院じゃネットできないんじゃ?」
「入院する前でしたから」
 質問を重ねようとして、迷う。どうして、入院しているか。なんて……、
「心臓の病気です」
「え?」
 視線をあげると、彼女は、悲しそうに微笑んでいた。
「分りますよ。どうして、入院してるのかって、聞きたいんでしょう?」
「あ、あぁ。もしかして、顔に出てた?」
 照れ笑いを浮かべ、俺は頬を掻いた。
「いえ、そんなには。でも、気になるんだろーなーって」
「ごめん」
「瀬田さんが謝ることありませんよ」
 微妙な一瞬が――確かに一瞬だったはずだ――白い病室を風のように通り抜けていった。
「あのさ。さんづけなんてしないでいいよ。梨花みたいに、呼捨ててくれた方が、嬉しい」
 言うと、彼女は本当に嬉しそうに、瞳を輝かした。
「はい。悟も、私のこと、さゆりって、呼捨てでいいですから…って。敬語も変か。じゃぁ、悟。みかん、食べない?」
「もらう」
 ちょっと照れながら差し出されたみかんを、こっちもまた笑いながら受け取る。すっきりとした甘味が口中に拡がった。

「どうして、あんなに綺麗な文章が出てくるの?」
「どうしてって言われてもなぁ……」
 他愛も無い話しを幾つか交わした後。さゆりが身を乗り出して、聞いてきた。
「ただ、自分の思い付いた言葉を書き留めてるだけだし。強いて言うなら…、そうだな。やっぱり、たくさん本を読むって事だと思う」
「いままで、どんなの読んだ?」
 今までの読書遍歴を、指折り数えてみる。
「かたっぱしから。最初は純文学、次にミステリー、SF、ファンタジーって流れかな」
 最近読んでる本は、かなり偏っている気がしないでもないが。
「なにが一番をお勧め? 私も読んでみる」
「んー。今度持ってくるよ。文庫本でさえ分厚いと結構高いのあるから。どういうのから読む?」
「なんでもいいけど…。短編集みたいなのがいいな」
 短編集、短編集ねぇ…。呟きながら、本棚のリストを思い浮かべてみる。やっぱり偏ってるよなぁ。
「まぁ。適当に持ってくるよ。何時がいい?」
「できる限り早くがいい!」
 勢い込んで言うさゆりに、少し驚いて。そして、微笑ましくて、つい、笑った。
「わかった、わかった。じゃぁ、明日持ってくるよ」

 そして、空腹感を感じて腕時計を見ると、もう一時をまわっていた。
「お昼は?」
「悟が来る前に、食べたけど…。もしかして、まだだったの?」
「ん。…何か適当に食ってくる」
 言って席を立ったが、ちょうどその時。ドアがノックされる音とともに、梨花とユウが入って来た。手にコンビニの袋をさげて。
「やほ。悟、お腹空いてるっしょ。お昼買ってきたよ」
「ありがたいけど、病室で食っていいのか?」
 ユウから袋を受け取りながら、問う。
「いいんじゃないか? 個室だし。バレなきゃ平気だろ」
「そんなもんかな?」
「そんなもんでしょ。私もいつもココで食べてるし」
 いいのかな、と疑問しつつも、袋の中のカルビ弁当の誘惑に勝てなかった。俺も、まだまだ食べ盛りなのだ。
 早速、弁当のフタを開けて、中身を平らげる。その間、梨花とさゆりは実に女の子らしい会話をしていた。
 ユウが所在なさげに俺の傍に腰をおろす。

「一つ、聞きたいんだけど」
 声を潜めて、隣に座るユウに声をかけた。
「なんだ?」
「さゆりってさ、あんまり梨花みたいに、思いっきりのいい方じゃないだろ? なのに、どうして梨花んとこにメール出す――HP見たってんだから、メールだよな――なんて事が出来たんだと思う? そういう事が出来るタイプに、見えないんだけど」
 質問した相手は、数秒黙っていたかと思うと、こう応えた。答ではなかったけれど。
「俺は口止めされてるから言えない。知りたいなら、本人に聞くといい。別に、答えてくれないってことは、ないだろうよ」
「…ずるいな。なんか、聞けないカンジだから、ユウに聞いたんじゃんか」
 ほんの少し、恨みがましくユウを見た。ユウは俺をまじまじと見返して、感心したように言った。
「へぇ。結構鋭いんだな。もっと鈍い奴かと思ってた」
「なんだよ、それ」
「ま、気にするなって。さゆりちゃんに聞けば分るよ」
「いいよ、別に。聞く程のことじゃないから」
 なんとなく、間をもたせるために、コーヒーを一口飲む。
 聞かなくてもいいんじゃなくて、聞けないんだという事は、自分でも分かっていた。

 それから、本当に毎日、俺は病室に通いつめた。
 さゆりの読むスピードが速くて、「明日持って来て」とせがまれたのもあった。でもそれより、俺自身がさゆりと会うのを楽しんでいたからだと思う。
 そして、十二月になって、期末試験が始まっても、俺はさゆりの病室にいた。
「悟、たしか期末じゃなかったっけ?」
「平気。平均点くらいには勉強してるから」
 テストの結果が下がる事はないだろうが、昨日の手ごたえからすると、少し不安でもある。
「いいけど。ねぇ、『銀河鉄道の夜』読み終わったんだけど。次、ある?」
「速いな。そう言うと思って、持って来てあるけどさ」
「だって、すっごく暇なんだもーん。次はなんて本?」
 さゆりから貸していた本を受け取って、しまうと同時に新しい本を鞄から出す。
「はい」
「『はるかニライ、カナイ』と『カード・ミステリー』?」
「沖縄の島の話と、そっちは『ソフィーの世界』書いた人のやつ。謎は多いしわけわからん展開になったりするけど、別に難しいって程でも無いから」
 さゆりは、早速ページをぺらぺらとめくり、そして言った。
「悟ってさ、海とか星とか好きなの? 本の内容で、そういうの多いけど」
「あー。うん、海も星も好きだな。夏には絶対海に行くし、一等星なら、多分全部言える」
「いいなぁ。私、海って行ったことない。ていうか、東京から出た事ないからなぁ」
「……マジで?」
「うん。マジで」
 実にさらっと、さゆりは言ったが。結構すごい科白だったのではないだろうかと思う。
 東京から出た事が無いって、つまり旅行した事が無いってことで。
 子供の時って、何かにつけて旅行行きたがるもんだよな。
 次に続く言葉を捜す間に、さゆりが初めて会った時と同じような笑みを浮かべて言った。
「そんなんじゃないって。偶々機会が無かっただけだよ。東京内だったら、結構遊びまわってるんだよ? ディズニーランドだって、乗り物全制覇したし」
「ディズニーランドって、千葉じゃんか。そばに海もあったろ、東京湾だけど」
「え? なら、東京出た事あるのか。あ、そうだ、横浜とかもよく行ったや。海見た事は、やっぱり無いと思うけど」
 なんだ。なんだ、そうか。あー、びっくりした。
「……なんだよ。びっくりしたじゃんか。つまりは、都会しか知らないって事?」
「うんうん。そうそう」
「そう言えよ。だったら、一緒にどっか行くか? 皆で。海もいいけど、今冬だしなぁ。スキーとか?」
「悟、悟。私、入院中だよ」
「あ……。あー、そうだよな。ここ、病院じゃん」
 そして、疑問が浮かんだ。
 退院って、いつになるんだ? ていうより。退院できるんだよな? 
 こんな元気なんだし。
「退院いつになる? そしたら、梨花達と一緒にどっか遊びに行こう?」

 返って来たのは、沈黙だった。
「さゆり?」
「………………………ほんとう? 本当に? 約束してくれる?」
「当たり前じゃんか。海でも何処でも、行きたいトコ、連れてってやるよ」
 彼女は笑った。そして、泣いた。
 狼狽する俺に、さゆりは涙を拭いながら言った。
「私、今度手術受けるの。それが終わったら、退院できるよ」
「ああ。それはいいんだけど。何で、泣くかなぁ?」
「あんまり、言いたくないな、ソレ」
「言いたくないなら、別に強要はしないけど」
 さゆりは、沈思黙考し、肩をすくめた。
「ま、いいや。つまりはね、今度受ける手術が結構成功率低くて、生きて病院出られるかどうかわからないと、そういうワケなのよ。ベタな理由でしょ?ベタすぎるのよ。古典的。冗談じゃないわよ、まったく」
「……マジで?」
 本日二回目となるその問いに、彼女は二回目の同じ答を俺に与えた。
「マジで」

 梨花に、ユウの車に押し込められて以来、数回目の思考停止。
 復活した瞬間には、ああ、だからかと、何故か思った。思ってから、どうしてだか理解した。
 さゆりが梨花にメールを出せた理由、梨花が俺を強引にでも病院に連れて来た理由、車内で梨花が一瞬言い淀んだ理由、ユウの意味深な言葉、さゆりができる限り早くがいいと言った理由、さゆりの悲しげな笑みの理由、今の涙の理由。
 そんな、事が。
 そして、少し経つうちに、何故だかわからないが、本当にわからないのだが、怒りがふつふつと湧いて来た。
「何時だ? その手術」
「教えない」
「どうして」
「心配されるのイヤだから。待たれるのがイヤだから」
「ふざけんなよ。だったら何か? 次に来た時いきなりベットが空になってるかもしれないって事か? 俺は道化を演じるつもりは無い」
「自分のエゴだってのは、充分理解してるよ。でも、イヤなの。言いたく無い」
小さく息をつき、怒りをそれに込めて吐き出す。少し冷静にならねば。まったく、どうかしている。
「わかった。手術の日にちはもう聞かない。そのかわり、これから外出許可とれるか?」
「外出許可? どうして?」
「いいから。とれるな?」
「うん。何とかなると思う。でも、許可とるには、それなりの理由が無いとダメなんだけど」
「あ、そっか。………無断外出もな、責任持てないし。さゆりの先生って、若い人?」
 どうも話しの流れがわからないって顔で、さゆりが答えた。
「若めだよ。たしか30代だったと思ったけど」
「なら――」
 丁度都合良く、白衣を着た30代位の男の人が入って来た。にこやかに笑って、会釈してくる。
「沙百合ちゃんの、彼氏かな? ちょっと様子を見に来てラッキーだったな」
「先生っ」
 顔を赤くして、さゆりが主治医をたしなめた。
 やっぱり、傍から見れば、そういう風に見えるのか。そんな関係ってワケでも無いと思うんだけど。
 いや、さゆりに好意を持ってるのは否定しないがって、俺、何考えてるんだ。
「先生、さゆりを外に連れ出したいんだけど、平気ですか?」
 先生は、少し眉をひそめた。
「感心しないね。一体この病人を何処に連れてこうって言うんだい?」
「ちょっと、いいですか?」
 先生にドアを指差して、外で話そうと合図する。相手は軽く頷いて、先に病室から出た。
「じゃ、ちょっと交渉してくる」
 さゆりに、そう言いおいて外に出ると、先生が壁にもたれて待っていた。

「それで、どうして、沙百合ちゃんを外に出したいんだ?」
 外来の時間は外れているらしく、人気のない待ち合い室。おごってもらったコーヒーの缶を握りしめながら、先生に言った。
「さゆりって、どっか既に諦めてるトコが、あるじゃないですか。死ぬかもしれないから、生きてるうちにっていうより、思い残す事が無いようにって印象受けるんですよね。たいして違いは無いって言われればそれまでなんですけど。だから、何て言うか、無理矢理にでも未練残して生きる意思を引っぱり出してやろうってーか。いや。それはタテマエで、本当は、さゆり泣かせたから、笑わせてやりたいだけだったりするんですけど」
 そう言って俺は、握ってた缶のフタを開けて、一口飲んだ。
「ははは。若いって良い事ですねぇ」
「果てしなく中年みたいですよ、先生」
「失敬な。私はまだ32ですよ。で。何処に連れて行くんです? 遊園地は論外ですよ」
「そんなとこじゃないですよ。海です。由比が浜あたりに車とばしてもらおうと思ってるんですけど。ダメですか?」
 32歳の若作りの先生は、困った顔をした。
「君の意見には、全面的に賛成しますよ。確かに彼女には生きる意思があまりない。そう、常々感じていました。しかし、難しい手術を前に、患者を外に出して万が一の事があっても大変。………、何時行くつもりなんですか? まさか、今日って事も無いでしょうが」
 少し、ぎくっとしたが、それは無視する。まさか、なんにも考えてませんでした、とも言えないし、ましてや、ユウと梨花に電話すればすぐ来てくれるよなぁ、とか考えていたなんて、もっと言えない。
 だから、口ではこう言った。
「できる限り早くとは思っていましたけど。具体的な日時は全然」
「なら、今度の土曜日にしませんか? 主治医がついて行くなら、問題ないでしょう」
 意外だった。
 若い先生ならあるいは、とは思っていたが、ここまで話しが通じるとは思っていなかった。
 さゆりの担当がこの先生だった偶然に、感謝する。
「ありがとうございます」
「いやなに。私もひさしぶりに、何処かに行きたかったんですよ。そうだ、同行者、一人追加してもいいですかね?」
「別に、構いませんが。どなたですか?」
 気になって、訊ねてみる。どんな人を連れて行こうというのか。
「看護婦さんですよ。ここの病院の人じゃないですけどね」
「…先生の奥さんですか?」
「残念、ハズレです。結婚式は半年先ですから」
「婚約者だったら、たいしてかわらないじゃないですか」
「かわりますよ。半年もあれば、何が起こるか分りませんからね。彼女に逃げられるかもしれないし」
 先生は思いのほか、若々しい笑みを見せた。そして続ける。
「君も、沙百合ちゃんに嫌われないようにな」
「そんな関係じゃないんですよ、ホントに」
 またまたぁ、と意地悪い笑いを浮かべて先生は立ち上がった。
「さ、病身の姫君に御報告してきなさい。私も私のお姫様のアポをとらなければ」
「はい。本当にありがとうございます」
 そして俺は、先生に一礼して、さゆりの待つ病室に駆け出そうとしたけれど、偶々近くを通った婦長らしきおばさんに叱られた。
 その後は、はやる気持ちを一所懸命に抑えて、ちゃんと歩いて目指す病室まで向かった。病院内で走るのはやめよう。

 数日後。
 無事に期末テストも終わって試験休みに入った土曜日。
 ユウにレンタカーの六人乗りワゴン車をころがしてもらい、鎌倉に来た。
 前に来た時は五月の若葉が青々としていた時期だったが、もう冬だから葉も落ちてしまっている。
 今、目の前には海がある。
「さゆちゃん、海だよ、うみ」
「そうだね。梨花ちゃん。初めてだよ、海見るの。キラキラしてるんだね、波頭に光が反射してさ。綺麗。ほんとに」
 文学少女は、ぼーっと海を眺めたまま、戻ってこない。梨花もその隣でぼーっとしていた。
「さゆりはともかく、梨花までこーなるとは、思わなかったな」
「そうか? 梨花はわりに好きだぞ、こういうの。ラッセンとか好きだって」
「梨花と友達やってて一年以上経つけど、そんな趣味があるとは知らなかった」
 傍らのユウから視線を外し、俺も遠く水平線を眺めた。
 ちなみに、大人二人は離れた処で何か話している。まったく、折角なら自分もデートしたかっただけじゃないのか? 先生。
 少女二人が復活してから、昼食をとるために、一旦街に戻った。適当に食べる。
 また海岸に戻ろうという事になって、お姫様方から、折角なんだからお店見て回りたいとのお言葉があった。
 もちろん、男衆はそれに従う。

 かくして、女三人が目を輝かせてのウィンドウショッピング、男三人が侘びしくそれを待つという構図ができあがった。
「なあ、先生。このままだと、結婚した後かかあ天下になりそうじゃ……」
「瀬田君。この世の中には、わかっていても言ってはいけない事がたくさんあるんだよ」
「つまり、これ以上は事実でも言われると痛いから止めてくれって事か?」
「紙谷君。厳しいね、君」
 先生が一人寒風の中に投げ出された。気持ちの問題なので、俺は痛くも痒くも、ましてや寒くなどなろうはずもない。
「ねぇ、悟、ちょいこっち、こっち」
 梨花が、試着室の前で手招きする。そのとなりで佐久間さんが――先生の婚約者が――にっこりと笑っていた。その表情を見て、先生の顔が引きつる。
「彼女がああいう風に笑うって事は、何か企んでる証拠。でも逆らうと後が恐いって顔だな」
 その言葉に、先生の未来がありありと見えた気がする。ともかくも、梨花に従って近寄って行く。
「何だよ?」
「さゆちゃん、いくよ」
 ジャーンという声とともに、梨花は勢いよく試着室のカーテンを開けた。
「どう、かな…?」
 声も出ない程、とはこの時のためにあるのだろう。見慣れたさゆりの顔がそこにあった。
「何か、言う事あるんじゃないの? さーとーるー?」
 梨花お嬢様の、恐ろしい声が隣から響いて来た。恐怖が硬直していた俺を目覚めさせる。
「あ、えっと。うん」
「煮え切らないのねぇ。お世辞なんて、考える必要もないでしょうに」
 本日のメンバーの中で最強のお姉様がおっしゃられた。確かに、鏡を背にして照れているさゆりは、凄く可愛かった。
「うん、良く似合ってる」
「それだけ〜?」
 不満げに梨花が言う。おそらくはコイツがコーディネートしたのだろう。めちゃめちゃ恥ずかしくて、ようやくこれだけ言った。
「かわいい、よ」

 また、浜辺に戻って来て。梨花とユウと先生達は何処かに消えた。
 梨花なら、気を利かせたのよ、って言い張るかもしれないが、まぁ、二人っきりになりたかったに違い無いな。
「どうだ? 海に来た感想は」
「綺麗。んでもって、やっぱり大きい、かな」
「こんなんで、綺麗って言ってたら、どうなるんだろうな」
「何が?」
「来年の夏。梨花と、まあその頃まで続いてたらユウも一緒に、四人で旅行しよう。もっと綺麗なもの、見せてやる。約束だ」
 さゆりが、隣で息を飲む気配がした。続いて、ため息のように吐き出される。
「もっと綺麗なものって、何?」
 本当に言いたかった事は、言わない事にしたらしい。俺はあえて何も気付いていないように、そのまま返した。
「本当の海も、こんな薄っぺらくない空も、数えきれない程の満天の星空も、さゆりが見たいもの、俺が綺麗だと思うもの全部」
「本当の海って、これが海でしょ?」
「東京湾に比べりゃましだけど、本当の海はもっと綺麗だ。ごく淡い水色から始まって、エメラルドグリーンから、また水平線で薄い水色になるグラデーションなんて、ここじゃ見られないだろう」
「見てみたい」
「なら、生きろ。約束破ったら許さないからな」
「…………と」
 微かに聞こえたさゆりの声に、驚いて向き直る。涙混じりの声に聞こえたから。
「さゆり?」
「ありがと」
「どういたしまして」
 ただそう言って、さゆりが泣き止むまで待った。

 新世紀が始まる前に、さゆりの手術は終わったらしい。らしいというのは、結局さゆりは教えてくれなかったからだ。
 ただ、2001年になっても、俺が道化になる事はなかったとだけ言っておく。
 そして、今日は――。
「悟ー。置いてくぞー」
 梨花が道の先で呼ぶ。いくら外だからって、病院の敷地内で大声出すなよ。
 結局、俺の予想通り、梨花とユウは21世紀に入ってすぐの時点で消滅した。
 約一ヶ月半。梨花にしては、良くもった方である。ユウとは何故か気が合い、梨花と別れた後もよく遊んだりする。
 今度バイクの免許とったら、一緒にどっか行くという、計画も企画中である。
 梨花は、昔付合ってたから気まずい、と言い出すなんて事もなく、私だけ仲間はずれにする気じゃないでしょうね、とかなんとか言っている。
 十中八九、無理矢理ひっついて来るだろう。ま、梨花だからしょうがない。
「もー。さゆちゃん、待ちくたびれてるぞっ」
「誰の責任だ、誰の。梨花が遅れてくるのが悪いんだろう」
「なによー。たった四十分の遅刻で、とやかく言わないでよ」
「とにかく、急ぐぞ」
 空からは、ちらちらと雪が降ってきていた。
 綿毛のような白い結晶は、初めて会った日のさゆりを連想させる。何かに触れては透明になって消えてゆく、その儚さも。
 これから、何年経っても。俺は、雪が降る冬の季節には、さゆりの事を思うに違いない。


 今日は、さゆりの退院の日。










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